自分にとってのあたり前

私の日常の話なんですが・・・

会社に行っている時は、
自分の役割に徹し、利用者さんとそこに関わる人たちのために働きます。
そして、仕事がない時は、
母のことをしたり、家族と過ごしたりですが、
自分のためにも時間を使っています。
自分のケア(語りかけとか)や、講座の準備、
その時響いているものをする・・・っていうのも大事な時間。

誰のためにそれをしているのか?
やはり、元をたどれば自分のためにしていることが多いかなと思います。
自分が最優先。次に相手のこと。

でも、そういうことも、この頃は、
自分を優先しようなどと意識しなくても、
周りの人のことを自然にやっている。
そういうことがふえた気がしています。

自分をもう見なくなったとか、大事にしていないとかいうことではなく、
自分を軸にして動くことは、もうあたり前になりつつあるのかもしれません。

自分の感情を見ることも、あたり前のこと。
パターンを探すのも、パターンではなく行動したいと思うのも。
それが日常になっているんだと思いました。

『考える』ことより『感じる』ことを大事にするって、
まず、働いている間はそう簡単にはいかないと思うのです。
よく考えろーって小学生のときから言われてましたしー
感情を入れるなーって職場でも言われたりする。
相手を思いやる・・・って、日本人の良さだと思うけど、
自分の感情があってのことですよね。

子育てもそうです。
子どもを見る母性は、母親としての本能、直感。
まさに自分が感じたところでやっているはずなのですが、
いざ、子どもに与えようとするものは、そこから大きく外れて、
自分のパターンで考えたものが多かったと思います。

考えるより、感じる方が難しい・・・
学びはじめた頃はそうでしたが、
今は、考えるというのは、
感じたものを、じゃあどうしようか?と、形にするためにあたまを使うこと。
私にとって考えるとは、そうでありたい。

それが魂の道場での学びであり、
今は自分にとって一番しっくりきています。

学びも、いろいろな学びがあります。
だから、自分のしていることが正しい、わけではない。
そこをはき違えないようにしていきたい。

師匠の言葉でさえ、
以前はこう言っていたのに、今は真逆なこと言ってる~
って感じたときがあり(どれが正しいの?と)、
でもそれは、私の状態が、そう私をさせているのです。
やはり、すべて自分あってのことなんですね。

変わらないことは、
いつも自分の内から世界がつくられている!
ということでしょうか。

その世界をつくるために、
自分を感じ、観察する生活がある。
しかも、それがなんとも面白いって思う自分は幸せだと思う・・・今日この頃です。


図書館の向こうに見えるのは、高松の池





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