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6月, 2024の投稿を表示しています

いい関係とは

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自分の住み慣れた領域というものが誰にでもあります。 その領域の住民は、言わばいつものメンバーであったりします。 例えば、友人関係。 今まで、何でも愚痴を言っては共感し笑い合えた、 っていうところでお互いつながっていたとしたら、 最近愚痴を言い合うこともなくなったし、 共感することもあまりないし、 笑い合うこともなくなった。 となるとー、もう自分はそこの領域ではないのかなあと感じてしまうことがあります。 自分の居場所はここじゃない?・・・って。 何でも話せる関係でいられることが、 以前は私も人間関係(特に友人との関係)の理想でした。 でもそれは、 ただ一つの関係性のかたちに過ぎず、 そういう関係を続けたいのか続けたくないのかは、自分が決めることで、 どれがいいとか悪いとかいうものでもないのかもしれません。 それに、何でも話せたと、満足したときのその話の中身って何なのか? 自分のパターンを満たすために、 相手の反応を利用していたということもあります。 共感してほしいから、 自分を正しいと言ってほしいから、 褒めてほしいから。 そういう反応や態度を取ってくれる相手というのが、 自分にとってのいい関係なのか?ということです。 もちろん、パターン全開で面白おかしく言いたくなるときもあるけど、 パターンではないところで話せていることも感じます。 自分は今何を話しているのか、 それがパターンであるかどうかをちゃんとわかって言っていれば、 そこに自分自身への不快感はないように思います。 (不快になったら、自分でケアをすればいいのだ) そうなると・・・ 相手がどうであるかはあまり関係なく、 自分は自分の好きな領域で生活していくことを選べる、ということなのかもしれません。 たとえ価値観が合わなくても、 笑いのツボが一緒でなくても、 そんなに共感がなくても、 あなたが正しいと言われることがなくても。 それらがなくても一緒にいられるし、付き合えないこともないのかなあって。 自分にとってのいい関係を強いて言えば、 魂と魂で付き合っていく関係です。 なんかすごく感覚的だけど・・・ 今はそういうふうにお付き合いしていきたいです。 こういうグリーンも好き

スマホを新しくして

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約10年ほど使ったスマホ。 ついに新しく買い替えました~! 今度のものは画面が大きいので、老眼に突入した私には、非常に見やすくてホント助かります。 そんなわけで、ここ数日で操作もやっと慣れてきたとこです。 自分が書いた日記を、最近ぽつぽつと読み返しています(スマホでね)。 自分が書いたとはいえ、 なるほどなあ、ためになるなあって、 あらためて考えさせられる内容のものもあれば、 何これ!全然意味わかんない!って支離滅裂な文章のものまで、 多種多様あります。 中には、もろパターンが騒いだまま書いているなあと思うものもあります(これは、恥ずい)。 そういうのは、思わず抹消したくなるんですがー、 グッとその気持ちを抑え、 これも自分の歴史だということで読みました。 読んでくださる方へ向けて書くのが『ブログ』かもしれませんが、 より純粋な自分になりたいという思いから、 今は自分自身に向けて書いていることが増えました。 ちょっと落ち込む自分へ、 だんだん苦しくなっている自分へ、 頭ぐるぐるになっている自分へ。 またある時は、 このまま進んでいこう!と前を向く自分へと、 いろいろな自分へ向けて、 何かを確認するために書いている感じがします。 こうしてあらためて、 その頃の自分に教えられることが結構あります。 日記の中にある、純粋さの部分に触れたとき、 ああ、本当にそうだよねって、 過去の私が、今の私を助けてくれているように思います。 一人でも読んでいる方がいる限り書きなさい。 と師匠が言った。 それは同時に、書くということが、 自分を見ること、知ることにつながるんだと知りました。 これからも、 相変わらず訳のわからないような、 意味不明な文章で書いていることもあるかもしれませんが、 読んでいただいている皆さま よろしければお付き合いのほど、どうぞよろしくお願い致します! 真ん中のぷつぷつ かわいい!

分かりたいと思う気持ち

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昨日の講座も、お一人様に向けての深い時間となりました。 ご参加いただきありがとうございました! ぜひ、モヤモヤが発動したときは、 この心のカラクリを思い出していただければと思います。 ―――――――――――― さて・・・ 本当は自分のことを分かってもらいたいけど、 話しても分かってもらえないだろうと思う時があります。 私の場合は、 「分かってもらいたい」が強いので、 まずは話すだけ話してみる方かもしれません。 当たってみて・・・そして、砕けた・・・(やっぱしな) っていうことが結構多いように思います。 でも、分かってもらわなくてもいい、と思う時もあるんです。 やけになっているのではなく、 本当にそんなふうに、自分のことはもういいって思うときがあります。 それは、 相手のことが以前よりもほんの少し理解できた、 ほんの少しだけ分かった・・・と感じたときです。 他人のことを理解するというのは、到底無理なことなんだと思うけど、 それでも分かろうとすることはできる。 分かりたいと思い続けていると、それが純粋なものであれば、 その願いは叶うような気がするんです。 今までの自分のままでは、何も見えてきませんが、 何かちょっと、自分がいたところから一段上がった時というか、 見ている場所がちょっと変わったときに、 それは見えてくるような気がします。 そして、少しだけ相手を知ることができると、 その分、自分のことは何だかもういいかなって思うようになるのが不思議です。 自分を分かってほしいと思っているうちは、 相手のことを本当はあまり理解していないし、 分かろうとしていないのかもしれません。 そういう意味でも、 相手を分かろうとすることを大切にしていきたいです。 オガールでお買い物

目からうろこを落とす

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●人を嫌ってはいけない  ●悪口を言ってはいけない これらは多くの人が持っているパターンかもしれません。 嫌いなんですか?と聞くと、「嫌いというか・・・苦手です」と返ってくる。 人を嫌うというのは人として最低の行為だ、 自分もそんな大した人間じゃないのに、人の悪口を言うなんて・・・ 等々、パターンが本当の気持ちに蓋をさせているのかもしれません。 私も、この気持ちよ~くわかるのです。 キライだと言ってしまうと(思ってしまうと)、 その人を見たときにますます自分が嫌いなことを自覚してしまって、 相手にわかられそうで怖かったから。 つまり、この気持ち、誰にも知られたくなかったんです。 相手にはもちろん、周囲にも(たぶんわかられているとは思うけど)。 どう思われるだろうか?こんな自分はきっと嫌われると、悪い方へ悪い方へどんどん想像がふくらむ・・・ でもこれはパターンなんだと気づいていないので、 このパターンだけに終わりません。 そこに付随する日常でのささいな出来事にも反応していきます。 パターンも『類は友を呼ぶ』んですね。 例えば、 ●人に迷惑をかけてはいけない ●よく思われたい ●嫌われたくない というところにも繋がっていて、 いつもいつも他人の目を怖がり、相手に機嫌よくいてもらうことにますます全力を注ぎたくなる。 人を嫌わないし、悪口も出てこないって、 とても楽な生き方だと思うけれど、 それが表面的なものではなく、本当であれば、です。 自分にとって本当の意味で正直で自然体であるのか? というところへの問いかけなんだと思います。 そこには、他人からどう思われているのかを、 ものすごく気にしている・・・ そういう自分はいないのか? あ~もう、あの人キライーーー! と言って吐き出すならばまだしも、 そこはやらずに(自分を見ずに)、 気持ちに蓋をし、次なる嫌われないための打つ手を考え、 自分が悪く見えないような行動を考え、 自分を他人に合わせていくことに、またまた労力を使い続けていく。 これは本当に疲れます。 心が疲れ、頭が疲れ、眠れなくなり、体は重くなります。 こうなってやっと、このままじゃダメだ~ってなりますが、 それでももう長年の癖(パターン)と、 そこから脱出するすべを持っていないために、 ただただ苦しいだけの自分をなげくしかない。 そんな繰り返しの世界に自分もいました...

大嫌いな人

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この世に大嫌いな人がいるということは、なかなかつらいことです。 特にそれが自分の生活圏内にいたりすると、心は穏やかではいられない。 私も、そういう人がかつて1人2人ではなくもうたくさんいて(ムカつくーって)、 今は単なるパターンであることを知っていますが、 当時はなんでこんな人がいるんだ?と、 また、自分はなんて性格が悪いんだろうと、うなだれていました。 パターンであることを知った後も、 はいそうですか、じゃ気にしませんとはならず苦しみは続きました。 自分の中にその人を嫌う答えがある。 と言われても、 自分の内面を見るとか向き合うとかいうのは今までやってきていません。 やり方もわからないし、自分だけを見るなんてとてつもなく勇気がいることで、 それはそれは怖かった。 でも・・・ 怖いんだけれど、 そういう大嫌いな人がいるという人生が、それ以上にもっともっと嫌だったんです。 自分の心がそこにいとも簡単に振り回される。 寝ても覚めてもその人のことで頭がいっぱい。 自分の人生をまるで支配されていくかのようで・・・ この苦しみから解放される日がくるのなら、 どんなことだってやってやろうと思うほど、 人が憎くてしかたなかったし、そういう自分も嫌いだった。 (ということで、パターンのケアがはじまった~) なぜにそんなにイヤなのかは、 自分を観察することで見えてきます。 え、なんで、自分なの? 相手を観察するんじゃないの? とはじめは思っていましたが、自分をちゃんと観察できないうちは、 他のものを、冷静にジャッジをせずに見れないのです。 だから、自分を見る、自分を知る(パターンを知る)というのは、 本当にその可能性がどこまであるのかと思うくらい、 世の中のいろいろな懐疑や不快感の元を、 根本から解決してくれる道の一つなんだと思う。 そして、自分のことが見えてくると、 ある時、とても冷静に、 相手のことを凝視できるようになっている自分に気づく。 いい時の自分ではなく、 イヤな時の自分が見れるようになってくると、 自分以外のものも、なんでも見れるようになる(見るのと、わかるはまた違うけど)。 その人の中に、自分で自分を認めたくないもの、 自分で自分をゆるせないもの、 また、自分の正しさを否定するものが相手の中に見える、ということがあります。 本当はそんな自分が嫌で嫌でたまらないとか、 ...

ネガティブの良さ

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ネガティブな感情は、 人と人を惹きつける力があると思います。 私も、ものすごいネガティブオーラ全開の時がありましたが、 そういう時どんなにつらくても、意外にも完全なる孤独、とはならず・・・ 自分の強烈なネガティブ感情に共感してくれる人がいて、 とても救われたことを思い出します。 きっとそれは、悲しさ、つらさ、絶望感がはんぱなくて、 そういう人って(←自分)、あまりにも不幸感が漂いすぎて、 ちょっと助けたくなるし、励ましてあげたくなるものなのかもしれません。 自分より不幸な人を見ると、 この人より自分はまだマシだ・・・と余裕が生まれるということもあります。 ネガティブな感情はみんな持っているものだから、 しかも、そこから脱出するのは大変な作業だとも知っているので、 その気持ちわかるう・・・って共感しやすい。 それが、ネガティブの良さだと思う。 これが、 ポジティブだとそうはいかないです。 嬉しいよね、良かったよね、という経験も自分にあって、 その気持ちは充分わかるのだけれど、 それは、大変なことではないので、自分が出ていこうとはならないのです。 共感はあっても、ぐーっと惹きつけらるというところまではいかない。 だから、ネガティブなもので引き寄せ合って、 人と知りあったり、興味がわいて仲よくなることがあります。 そこからの結び付きは深く、 ネガティブな共感はポジティブのそれとは違って強固です。 魂が震えるような結びつきというのは、 ネガティブな感情、出来事にこそ潜んでいると思う。 それくらいでないと、魂は震えません!? でも、そうなると、 相手にネガティブさがなくなったとき、 その関係はもろい・・・というのも否めない。 共感し合えなくなると(またはどちらかが幸せになっていくと)、 急に関係性が冷めるということもあります。 お互いが成長し合える関係になるには、 そこだけで結びつくのではなく、その先を目指すことが大事だと思う。 今までの感情とは違うものをどうやって作るのか? ネガティブだからこそ、違うものを体験しよう。 そう思う気持ちがあれば、それは互いに影響し合えると思います。 新しい感覚を持てたときに、それを相手にも伝える。 新しい共感があれば、また違う関係性が心地よく感じられるかもしれません。 ポジティブな中にあるネガティブさや、 ネガティブの中にもあるポジティブさの...

正しさを主張する

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自分の正しさを主張したがるパターンがあります。 道場での学びが、この世で一番正しくて一番素晴らしくてすごいもの! これ、学ぶ仲間たちもみんな経験しているんじゃないかな〜笑。 先日、このパターンが騒ぎまくり、 自分でも、こんなに他のものを否定する自分がいたことに(←パターンがね)ちょっと衝撃でした。 そこまで否定するって、よほどに自分は正しいと思っていたと思うし、 自分がしていることを否定されたくないという(そうされたわけでも何でもないが) パターンの反乱で、ガツンと目が覚めたような感じでした。 こうして見事に、パターンが教えてくれるんですね。 そのあと、語りかけをしてー 今のその人の正しさがあるだけなんだなあって落ちつきを取り戻しました。 自分がしていることが正しいと思うと、 もうそれ以上学べなくなってしまうだろうなって思います。 でも、◯正しいわけではない、を選択すると相手の大事にしているものもちゃんと見ていく力もつきます。 なぜ、その人はそれをしているか? なぜ、自分はそれを見て不快なのか? ここに落ち着けてよかったです。 パターンって本当に自分に今必要なことばかり教えてくれるなあ。 友人が初めて作った馬っこの衣装!

自分にとってのあたり前

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私の日常の話なんですが・・・ 会社に行っている時は、 自分の役割に徹し、利用者さんとそこに関わる人たちのために働きます。 そして、仕事がない時は、 母のことをしたり、家族と過ごしたりですが、 自分のためにも時間を使っています。 自分のケア(語りかけとか)や、講座の準備、 その時響いているものをする・・・っていうのも大事な時間。 誰のためにそれをしているのか? やはり、元をたどれば自分のためにしていることが多いかなと思います。 自分が最優先。次に相手のこと。 でも、そういうことも、この頃は、 自分を優先しようなどと意識しなくても、 周りの人のことを自然にやっている。 そういうことがふえた気がしています。 自分をもう見なくなったとか、大事にしていないとかいうことではなく、 自分を軸にして動くことは、もうあたり前になりつつあるのかもしれません。 自分の感情を見ることも、あたり前のこと。 パターンを探すのも、パターンではなく行動したいと思うのも。 それが日常になっているんだと思いました。 『考える』ことより『感じる』ことを大事にするって、 まず、働いている間はそう簡単にはいかないと思うのです。 よく考えろーって小学生のときから言われてましたしー 感情を入れるなーって職場でも言われたりする。 相手を思いやる・・・って、日本人の良さだと思うけど、 自分の感情があってのことですよね。 子育てもそうです。 子どもを見る母性は、母親としての本能、直感。 まさに自分が感じたところでやっているはずなのですが、 いざ、子どもに与えようとするものは、そこから大きく外れて、 自分のパターンで考えたものが多かったと思います。 考えるより、感じる方が難しい・・・ 学びはじめた頃はそうでしたが、 今は、考えるというのは、 感じたものを、じゃあどうしようか?と、形にするためにあたまを使うこと。 私にとって考えるとは、そうでありたい。 それが魂の道場での学びであり、 今は自分にとって一番しっくりきています。 学びも、いろいろな学びがあります。 だから、自分のしていることが正しい、わけではない。 そこをはき違えないようにしていきたい。 師匠の言葉でさえ、 以前はこう言っていたのに、今は真逆なこと言ってる~ って感じたときがあり(どれが正しいの?と)、 でもそれは、私の状態が、そう私をさせているのです。 や...

自信をつけるためには

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他人からなぜ求められたいのか? なぜ必要とされたいのか? 求められることでパターンは、自分の存在価値を感じ、そこに安住できるからです。 パターンは何かを自分が持つことよりも、他人から与えられることを考えます。 また、何かを持っていたとしても、 そこを評価してくれる人、認めてくれる人、求めてくれる人がいないと、 これもまた満たされません。 誰でも、日常生活や仕事を通して積みあげてきたものがあると思うのですが、 そういうものは、大したものではないと思っているので(パターンって、とことんダメ出しする)、 そういう自分なんて信じられないし、尊重できないし、認めることはできません。 でも、 もしも何もないと思う自分であったとしても、 どんな小さなことであっても他人から求められさえすれば、 それを感じなくてすみますよね。 だから、自分には何も無いと言うわりには、あるかのように求めるんです。 誰か、こんな私を求めてくれーーーって。 根底にあるのは、自分に自信がもてないというところなんだと思う。 自分なりに一生懸命生きてきたその今の自分(存在)が少しずつ見えてきて、 自分にとっての自信とはなんだろう、って考えていました。 まずはー 自分に自信がないと認めるところからはじめます。 自信がないのだから、 その無いと思う部分を認め、それを一生懸命やる。 自分を観察する、研究する、自分で実践する、工夫する、努力する。 なりふり構わずやる。 その一連の工程が自分に必要不可欠なところなんだと思い、只今やっているところです。 もしかしたら、その一つ一つの実践が、 自信というものになっていくのかもしれないし、 そんな自分であれば、もう他人を必要としなくなるのかもしれないし、 どうなるかはまだわかりません。 ここはもう実践というか、 自分にしかやれない実験ですね! 他人から求められたいのは、自分に自信がないから。 そして、自信がなくても、ないままのあなたで大丈夫だと他人に言ってもらいたいから。 でも、他人は自信がないと思っている自分には到底求めるものなどない・・・と思う。 ならば、どうありたいのか自分?(←結局ここ) 自信をつける努力をする。 自分を甘やかせないでやってみる。 これが今しっくりきています。 西根も31℃

他人から求められたい 

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●他人から求められたい というパターンが自分がもっているパターンの中でも、 強い刷り込みがあるのではないかと感じています。 他人から求められている・・・というある夢を見て目が覚めたとき、 なんとも言えないような安心感というか気持ち良さを感じていました。 この感覚って、 ずーっと昔からそうしてきた自分がいて、 手放せなくなっているんじゃないか?って思いました。 嬉しいを通り越した高揚感、優越感。 それは麻薬のようなものなんじゃないかって。 嗜好品をしばらくやめてはいたけれど、 復活させてみたらやっぱり、それがほしい!ってなるようなもの。 先日見た夢も、夢の続きが見たい!と、 もう一度味わいたいと思ったとき、 あ・・・これって相当なボス的パターンなんじゃない?って感じました。 他人から自分が求められるというのは、 自分がやったこと、そのものに対して、ではないんですね。 対象となるのは出来事ではなく、自分自身なのです。 自分の存在を必要とされること、求められること。 それさえあれば自分が生きていられるとパターンは思っているのかもしれません。 だから求めてもらえないことには耐えられない。 求められてなんぼの自分だって思っている。 そして、求められないと、なんで?と、焦燥感、嫌悪感、不快感が走る。 自分が生まれるもっと遥か昔から、何度となくチャレンジはしてきたけれど、 まだこのパターンの存在と充分に向きあえていなかったのだと思いました。 そこには長い長い私の歴史があるのかも・・・ 長い夢から目覚め、 パターンが満たされて気持ちがよくなる自分ではなく、 そこを満たしたいと思わない(選ばない)自分になっていきたい。 馬っこの足!たくましい~

真逆な経験をしていく

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昔、私はよく、真面目だねーって言われることがあって、 そう言われるとあまりうれしくありませんでした。 なんだかつまらない人間、だと言われているような気がしていました。 中学の時に、時代が時代だったので、 周りにヤンキーっぽい人たちがたくさんいて、 何だかうらやましいなあと思ったことがあります。 自分も恰好だけちょっとだけ真似しようとするけれど、 全然、中身は変わらない。 ずっと、よい子または普通の子で来ていたんですね。 そう、どうしても無理があった・・・ ハメを外したり、規則も、どう思われるかも関係ない。 っていうのは、自分にとっては不自然なこと。 でも、他人から真面目な人だとは思われるのも、なんだか嫌でした(微妙な年ごろだ~)。 見た目も態度も生き生きと楽しそうにしている人たちを見ていると、 気が弱い自分にはないものを全部持っているかのようで・・・ 自分に無いものを持っている、ということがうらやましさでもあり、 そういう自分を小さく見てしまう癖は、 いまだにあるように思います。 ヤンキーっぽいというのも一つの個性なんだと思いますが、 無いものをとにかく欲しがる自分・・・ 自分を大きく見せたい、それがあれば良く見える、 といった目先の変化が欲しかったのかもしれません。 そういうところから、違う自分になってみたかったのか? とにかくそういう、 真面目がゆえに、お利口さんがゆえに、優等生っぽさがあるがゆえに、 そうじゃないキャラになることができなかった(とパターンは思っていた) という話なのですが、 どんなキャラでいたいのか?は、 その時自分は、どうありたいのか? と同じなんだなと思いました(←これが言いたかったのよ)。 もちろん、見た目でのどうありたいか?というのもあるのかもしれませんが、 今は、そうではなく・・・ これまでの自分とは違う自分になっていきたいんです。 なぜならば、そこをやってきていないから! どんな自分でもいい、どっちでもいい、のではなく、 そことは違うところにいる自分、という『真逆な経験』をしたいのです。 真面目といっても、昔と今とでは意味付けも変わっています。 頭できちきち考える、一般的なところで考える、 危ない橋を渡らない、社会の決まりみたいなものを守る、というような捉え方。 そうであれば、 きちきち考えすぎない、一般論で考えない、どんな橋でも渡...

はじめて講座〖7~8月〗

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先日の講座は、友人が一人参加してくれました。 そこで、自分の勉強のためにビデオを撮らせてもらい、 今の自分、現実を知ることになりました(怖いよー)。 まずは、恥ずかしいのですがー見た目の話。 わかってはいましたが、ホームページの自分の写真が、 大分詐欺な感じになっているんです(あれから〇㎏太ってしまったー)。 写真を最新のものに変えなければ、 来ていただいた方が私を目の前に探してしまうかもしれない・・・ 映像に映った自分の姿を見て反省しました。 それから、気になること2つ目、自分の声。 若い頃からずっと、このかすれ声がコンプレックスでもありました(活舌もほんと悪いしー)。 先日、子どもの頃以来会っていない親戚に電話をしたときも、 「そうそう、その声、変わっていないね」と言われ、 え、そんな子どもの頃から私ってガサガサ声だったの? ・・・と、大人になってからこうなったとてっきり思っていたので、 本当に驚いたのでした。 それがもう、ここに関しては聞きなれてきたためか、 あらためて聴いてみて、ま、別にいいかと思えました。 そして(ここからが本題)、全体的にどういう印象か? 自分ってどうなの? たくさん細かいところで、自分の変な癖が見えたのです。 相づち、クライアントの方に対しての話の返し方、 表情、しぐさ、聴く姿勢、話し方の癖など怖いもの見たさでガン見しました。 するとたくさんのだめ出しが出てきます。 そしてもちろん、内容もいろいろ説明が分かりにくい箇所があり、 結果的にはとても勉強になりました。 『伝える』から『伝わる』って本当にむずかしいことだと思っていましたが、 (いえ、むずかしいことです)自分の情熱は自分だけのものなので、 それを受け取るかどうかは、自分の範ちゅうではないということがちょっと理解できた気がします。 そう、ここからは相手次第なんですね。 『伝えた』というところで、 自分の役割は一旦終わるのではないかと感じました。 あとは、相手の方がそれが必要だと感じるかどうかであって、 そこはもう自由な選択で、それ以上の詮索は不要なんだなあと。 反省点だらけで終わらず良かった〜 自分を客観的に見ることができたので、また自分を撮ってみようと思います。 もしかして、ユーチューバーの人たちも日々こうして研究しているんですかね? 協力してくれた友よ、ありがとう!! というこ...

自分を大事にする時間

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いつもだいたい夕食後の睡魔との闘いに負ける私が、 久しぶりに夜の時間をゆっくり過ごしています。 今日は昼寝ならぬ、夕寝をしたおかげ。 最近は自分の生活の見直しをしています。 すぐに眠くなって寝てしまうので、 そんなことをしていると、1日のうち行動できる時間がほんと短いんですねー。 平日の夜の時間というものが、ほぼない。 やりたいことがいっぱいあるのに、眠くてできないのが悩み。 休日はできるだけ、体を休めるようにしたいとは思っていますが、 なかなかそうもいかない・・・ という生活サイクルを、ちょっとずつ変えていきたい。 仕事中は、なるべくずーっと座っていないように、 外出時は遠くに車を停めて歩き、 昼休みも食後はお散歩。 休日は、ストレッチや筋トレをゆる~くやる。 時間があるときは、昼寝か夕寝をちょっとでもする。 食事はゆっくりよく噛んで食べ、 お腹いっぱいになるまで食べすぎないようする。等々。 きっと、好きなことをやっている時は体も全然疲れないけれど、 その他のことはもう、 無理ができなくなった年齢に入ったんだなーって実感しています。 自分を大事にするって、心も体もどっちもですね。 さて今夜は、 全然眠くないので、 パターンへの語りかけをじっくりやりました(←これ心の方)。 先日、パターンが大暴れしたんです。 あまりの荒れようにすぐには語れませんでした。 今日やっと、やっと、向き合えました。 ノートに思いのたけを書きなぐり、 書くだけ書いたら、冷静な「私」でそれを文章に整えていきます。 「あなたはなぜそう思うの?」という質問をパターンへ繰り返しながら、 語りかけを作る。 そしてパターンへ心をこめて話しかける。 その後、洗いものをしていたら、 ふっと思い浮かんだものがあり・・・ それが明日からの自分のあり方にヒントをくれました。 ちょっと、この落ち着く感覚を思い出しながら明日はやってみようかな。 やっぱり、一人になる時間っていいですよね。 自分を大事にできる、こんな時間をたくさん作っていきたいから、 そのためのよい習慣は必要。 この体に感謝しながら、長持ちさせていきたいです。