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5月, 2023の投稿を表示しています

ある日の晩ご飯

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何かの行動をとるとき、 それをする動機があるのだと思います。 たとえばご飯を作るとき、 自分が食べたいから作るということが多いのですが、 夫の好物だから、夫が喜ぶから作る、ということもあります。 また、外食して美味しかったから、あの味を再現したいと作ることもある。 あとは、もうこれを今日食べないとヤバい(腐る)・・・も、あります。 動機って、やはり大事ですね。 そういう理由で作ったのなら、この結果になるよな、 ってことがあるからです。 ご飯作りでいえば、 「これ、今日食べないとヤバいから作った」というものが、それ。 それでたまたま美味しく作れるときもありますが、 野菜がしなびてしまって、いまいちの味と触感になり、 夫がけげんそうな顔をして食べていました。 ああ、まずいんだろうな・・・ (水菜の鮮度がおちて、藁のようになっていた) 楽しく、満たされるはずの食事の時間が、 どよーんとした空気に包まれます。 「これ、かってえな(固くてスジが残るな)」と言われ、自分も箸がすすまない。 食後、一生懸命つまようじを使う夫。 もっと早く、シャキシャキなうちに調理すればよかったと後悔しました。 ものごとがうまくいかなかったとき、 大抵が、この動機がよくなかった。 というところに収まるような気がします。 その水菜も、安かったので2袋買ったのでしたが、 二人暮らしでこんなにいるか?という量。 外食も続き、鮮度がどんどんおちているのはわかっていました。 今日一気に食べてしまおうと、 みそ汁に、サラダに、炒め物に全部入れて作った私。 元々、夫が水菜はあまり好きでもないと知っていたけれど、 まさかここまで、しなく(固く)なっていたとは・・・。 安い!というだけで買うと、こういうことになりますよね。 毎日のご飯だからこそ、 ちゃんと美味しいものを作ろう。

落ち着きと安らぎ

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自分の声を聴く、耳をかたむける。 そして、 あなたのことを「私」は理解しているよ。 と、自分に向けて伝える、語る、ということはどういうことか? 「私」が「パターン」へ、 そうだよね、あなたは必要とされていないって思っているんだよね、 と語りはじめると、 そうそう、そうなのよ、やっとわかってもらって、うれしいよ。 っていうパターンの喜ぶような声ではなく、 ちょっとトーンダウンした暗い声が聞こえてきます。 けれどだんだんに、心は静かになり、落ち着いていきます。 そしてもう、 そのこだわりは自分にはいらないんだな。 もう、それは違うんだな。 と、別の世界に自ら歩いていくような感じがあります。 ときどきまたパターンに引っ張られそうになりながらも、 ああ、これってパターンなんだなあ と、冷静にみていられるようになり・・・ この落ち着きって、なんなんだろう? 赤ちゃんがよく、 ガーゼのおくるみにくるまって、 目をぱっちりと開いて、じーっと何かを見ていることがあります。 何も心配ごともなく、 目に映るものをただ純粋に眺めているような。 そういう落ち着きなのかなと、ふと思いました。 今も夜寝るときに、 ふかふかのお布団に入った瞬間のあの心地よさ、安心感。 ああ、気持ちいいなあ~落ち着く〜って思う。 あれは、赤ちゃんの頃から知っている安らぎの一つなんだと思います。 パターンが落ち着いてくると、 この安らぎの中、 ただ、自分に起きるものをぼんやりと眺められるようになる。 ぼんやりと・・・っていうと、 なんとなく、しっかりしろ、大丈夫か? となってしまうのかもしれませんが、 むしろ、しっかりしなくていいのだと思います。 ゆったりとそこに居てもいい。 結局、落ち着きと安らぎは、どこにあるのか? 今は、自分が学んでいるこの方法で、 そこにたどり着いてみたいと思いました。

それって、まぼろし

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昨日のつづきです。 ●(自分は)必要とされていない と思っているパターンの言い分はこんな感じです。 だって、自分の考えが通らないし、共感されないし、 むしろ反対のことを言われるし、全然自分を頼ってくれない。 自分はいてもいなくてもいいんだ。 ・・・と、パターンは言っています。 さらに、 必要とされていないというのは、価値のないこと、 人としてだめだということだと、パターンは思っています。 だけど、必要とするかしないかは、 自分ではなく相手が決めること。 厳密にいえば、相手の中にあるパターンが判断していることです。 『相手のパターン』対『自分のパターン』 という構図なのです。 一生懸命主張をして、でも誰からも共感されなくって、煙たがれて。 それでもまだ、自分が何かの役に立つのではないかと、 相手からの信頼、賞賛、評価を求めている・・・ 自分がそんなパターンに翻弄されていると、 たまたま自分と似たようなパターンをもっている人と、引き寄せられるかのように出会うんですね。 その人を見て、 ものすごく、なんとも表現しがたい、 独りよがりの滑稽な感じだと思いました。 なんでこんなに無駄な抵抗をしているんだ?って。 私もおんなじなんだ。 「必要とされる」ということに執着し、相手に求め続け、 それでもまだ気づかずもがいている。 無いものを必死で追いかけているような感じです。 ま・ぼ・ろ・し〜〜〜なのに! 以前、自分のことを、 ●わかってもらいたい、と思っていたとき(今もあるが)、 「わかってもらう」というのは、本来ないことなんだと、 それは違うんだと知って、衝撃を受けたことがありました。 ですが、衝撃とともに静かな『納得』がありました。 ●必要とされていない というのも、同じ仲間かもしれません。 そうやって他人に何とかしてもらおうというのは、本来ない。 存在しえない、違うことなのかもしれない。 そして、すべての悩みの根源である、 ●思い通りにしたい というパターンがそうなんだと思います。 これが最もありえない、まぼろし。 この世の法則と逆行している考え方です。 ただ、深いところでは、 結果すべてが、どんな生き方であっても、 思い通りに生きていたということにはなるのでしょうが・・・ こんなふうに、 そもそも、「それってないからね!」 という事象について、抵抗しているというのは、 苦し...

わかっている気になる

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師匠のカウンセリングを受けました。 一人では気づけなかったことがたくさんありました。 自分をちゃんと見るというのは、 つくづく出来ているようで、出来ていないんだと思いました。 見ている、知っている、わかっている、 そんな気になっていたんだなあ・・・と。 そのわかっていないことの一つに、 最近語りかけをしている ●必要とされる人になりたい、というパターン。 なぜ、そう思うかというと、 全然必要とされていない、全然役に立っていない、 と思っている自分(パターン)がいるからなのですが・・・ そうであるならば、 ●自分は必要とされていない! が自分が今思う本音ではないか?ということ。 こちらの表現の方が、直球な感じで胸にズキンときます。 言われみて、 あ、全然違う・・・ここからそもそも違っていた、と。 単なる、〇〇のような人になりたいな~ っていう生易しいものではなく、 もっと自分の中の悲痛な声を聞き、その声をストレートにあらわす。 ここを、きれいな言葉に置き換えてはいけなかった。 『必要とされる人になりたい』よりも、 『必要とされていない』の方が、 今の自分の正直な思いを、 「私」がしっかりと受け止めてくれているような感じがしました。 まずは、そこからもう一度語りかけていきたいです。 つづく

なんとかやっていける

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母の歯医者さんに行く日を、すっかり忘れていて、 他の用事を入れてしまいました。 どうしよう・・・ でもな・・・ もしかしたら、母も一人で行けるんじゃないだろうか? と、頭をよぎります。 その歯医者さんは、今回で3回目でしたので、 場所も完全に覚えているところだし、 なんとかなるんじゃない? という言葉が、こだまします。 すると、母から電話がかかってきてー 「今日ね、歯医者だけど、一人で行ってくるからね」 テレパシーが通じました! でも、電話を切ったあとに、 本当に一人で大丈夫か?と、 うまくいかなかったときのことを、あれこれ考え始めます。 たぶん、補聴器は忘れて付けないだろうから、 話が通じないだろうなとか。 イスから降りるとき、この前はふらついて危なかったなとか。 帰り道、疲れて転んで骨折したらどうしようとか。 一瞬にして、心配事が押し寄せてきます。 でも、今は私のできることをしていこう。 歯医者さんへ連絡を入れ、 いろいろお願いしたいこと、注意してほしいことを伝えました。 用事を終えて実家によると、 「あら、どうしたの?」 と、いつもの笑顔がありました。 歯医者さんは全然痛くなかったようで、 とにかく無事一人で行って帰ってこれて、ほっとしました。 自分が約束を忘れていたことで、 それが原因で母に何かあったらどうしよう。 以前の自分ならば、それだけは避けたいと思っていたと思います。 だから、そうならないために、 母とのことを優先して動くことが多かったのです。 自分のせいで、母に何かあったら、 後悔してもしきれない。 もう自分は生きていけないって思うほど、 それは怖いこと、あってはならないことだったと思います。 その恐怖心や、脅迫じみた感情は、どこから来るのか? 自分を守りたい。 自分を苦しめるものから逃れたい。 その一心だったと思います。 母のために・・・ではなく、自分のため・・・だった。 自分を支配していたものの正体がわかり始めると、 自分がなんとかさせようとするものではない。 母の人生は、母にお任せしようと思うようになりました。 それでも、不安になるときもあるし、 いろいろ大変なこともたくさんある。 でも、そういう自分とも一緒にいられるようになった気がするし、 なんとかやっていけるという経験の方が増えてきたように感じます。 母が根気よく、 そう経験を私にさせて...

こだわらなくてもいいのかもしれない

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〇もうそこにこだわらなくてもいいのかもしれない という白パターンは、 あらゆる黒パターンに対して使うことができます。 自分の中には、 白と黒の両方があるため、 ~が嫌い、~すべき、~してほしい、~になりたい といったパターン全部が、 そう思うこだわりから自由になることができる。 そのように心の中はなっているようです。 パターンというのは決めつけや思い込み、 そして願望もそうです。 もしも、願ったものが叶わなかったら、 そんなのやだ、寂しい!って思うのは、 本当の「私」ではなく「パターン」が寂しがっている。 「私」と「パターン」は別人なのだ。 これが分かった時、 本来の自分「私」という存在は、 なんて広〜い世界にいるんだろう!と思いました。 ただいきなりは、その世界にいけないため、 「もうそこにこだわらなくてもいいのかもしれない」の、 「・・・かもしれない」という言葉を使いながら近づいていくという感じなのです。 断定的ではなく、強制的ではなく、 もしかしたらそうなのかなあっていう、 黒から少しづつ白に移り変わっていくような。 まだ、黒パターンの存在を感じながらも、 白パターンに片足を突っ込んでいるような、 このぼんやりとした、まだ曖昧な感じがいいのだと思います。 がんとしてこだわっていても、 どこかそのこだわりが薄れてきている自分。 または、こだわることに疲れてきた自分。 だから、もう今までのようなこだわりの世界にいなくても、自分は大丈夫かもしれない。 また、そんな自分になってきているんだ、と。 黒を使いすぎているから、これからはちょっとグレーや白も使ってみるか。 っていう、バランスを取っていくことに似ています。 白黒はっきりつける。 という考え方は、その方が迷わなくていいし、 何かを決めるときは、便利だったりします。 スパッとしたすっきり感もありますしね。 でも、 生きていると、白黒はっきりしないことの方が断然多い。 そしてはっきりしないことの方がむしろ、 先の展望があって、奥深さがあって、柔軟さがあるように思います。 まるで宇宙に自分が漂っているかのように、 答えは、星の数ほど選べるのだと思います。 どんな状況にあっても、 何にもしばられず、選択肢が広がる世界。 今日も「こだわらなくてもいいのかもしれない」を感じて、 心を軽くしていきたいです!

銀河鉄道の父

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宮沢賢治の父・政次郎が主役の映画『銀河鉄道の父』観てきました。 あの宮沢賢治を、どう映画にまとめるのか? とても興味深くはあったのですが、 はじめ、映画化されると聞いたとき、 この親子のことを物語として表現するのは、 ちょっと難しいのではないかと思いました。 賢治の世界観はもちろんのこと、親子の話は何が真実なのかもわからず、 それこそ、ホメラレモセズ、クニモサレズにならないだろうか?と。 それだけ、いろいろな説というか、 賢治が見聞きしてきたもの、作品に込められた意味、宗教思想、 セクシャリティに及ぶことまで、 本当にさまざまな解釈を持たれているように感じるからです。 でも、見終わってみるとー 賢治さんの怖いくらいの真っ直ぐさと、 子を思う父・政次郎の愛情ゆえの葛藤が、 観た人へ、自分の体験と照らし合わせて深く感じられるよう、 ストレートに描かれていたように思います。 父親役の役所広司さんも、賢治役の菅田将暉さんも、 妹・トシ役の森七菜さんも、すごくよかったです。 なんか・・・少しほっとしました(何目線なんだ?)。 花巻に建つ記念詩碑には、 「雨ニモマケズ」の一節が刻まれています。 でも政次郎は当時、違う詩「業の花びら」を、 本当は刻みたかったのだそうです。 なぜ?その詩がふさわしいと思ったのか・・・ そのあたりの秘話を知って、 また少しだけ、賢治の生き様が理解できるような気がしました。 そして、人間くさい賢治がまたまた好きになりました。 賢治ファンのディレクターが、 業の花びら 宮沢賢治と父と子の秘史 という番組でこれまでと違った切り口で、これら賢治の謎をひも解いています。 映画と合わせてみると、 またずっしりと胸にせまるものがありました。 気になる方はオンデマンドですが・・・どうぞ!

パターンの使いすぎ

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余計な一言を言ってしまう。 ということが一度ならず、何度かありました。 その場で、 そのときの感情のままに、口に出してしまう自分。 言いたいことを言って悪い、ということではないのです。 でも、 言わなければ良かった~と、 ものすごくもやもやしているというのは、ちょっと違うのです。 誰かにどう思われるかというところもありますが、 それ以上に、自分自身対して不快なんですね・・・。 言った後、胸のあたりのもやもやが、 気持ち悪い。 自分に腹を立てている感じもある。 パターンで話すと、こうなってしまいます。 本当の「私」ではなくてパターンで話すというのは、 この気持ち悪さで、すぐにわかります。 ああ、「私」はどこに行ったんだ?と。 ああ、これは、本当の「私」ではないな。 パターンを随分使ってしまったな。 と気づかせてくれます。 本当の「私」ではないものが、 懸命に自分を動かし続けました。 本当は、こんなことを言いたいのではない。 こんなことをしたくない。 でも、そうせずにはいられない自分もいるのも事実。 これが、パターンです。 余計な一言を言わずにはいられなかった。 という行動をおこさせたのは、 そうさせたパターンがいるということ。 ●全部、自分の思い通りにしたい というパターンが、そうならない場面にいちいち口をはさみ、 自分の存在に気付いてほしいと騒ぐのでした。 このパターンへの語りかけと同時に、 実際にとる行動を意識的に変えていくことも大事です。 余計なことを言ってしまうこのパターンに、 主導権をにぎらせないように。 黒パターンを使いすぎたので、 白パターン、 ◯もう思い通りじゃなくても大丈夫なのかもしれない を使っていこう。 そして、バランスをとっていこうと思います。

パイプの詰まり

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PCが調子悪いなあと思っていたら、 とうとう壊れてしまったのか、固まっています(泣。 夫の古~いPCを使わせてもらい、この日記を書いています。 古~くても、余計なものが一切入っていないPCは、 私のものよりもサクサク進み、 意外と快適です(キーボードもでっぱりが高く打ちやすい)。 余計なものを付けない(持たない)というのは、 PCに限らず、なんでも軽さがあっていいですね。 使う目的がはっきりしていて、 不要なものと必要なものが決まっている。 そこへ真っすぐに進める感じっていいです。 自分が進みたいと思う道も、 天の意に沿っているときは、 やはりこのPCのようにサクサク進むような気がします。 そうではないという時は、おそらく、 余計なものやじゃまするもの、誘惑するものなどが現れたり、 パイプにいろんなものがぎっしり詰まったかのように、 流れていなかないなあ、と思うことがあります。 そういうとき、二つの考え方があって、 自分に必要なことだから起きている! という捉え方もあれば、 自分の迷いがそうさせている(現実を作り出している)! という捉え方もあるように思います。 前者は、大きな目でみればすべてがそうだと思うので、 これも真理かと思いますが、 後者は、 余計なもの、じゃまするもの、誘惑するもの、 それら自分を詰まらせるものがあってはじめて、 目が覚めた・・・となる。 ある意味自分には必要な現実かもしれません。 なぜ、それをしようとするのか。 なぜ、それをしようとしないのか。 物事へのブレーキ、心のブレーキがかかるとき、 今していることへの動機はなにか?を考えてみます。 純粋な動機であれば進めるはず。 純粋とは・・・余計なものがはいらない。 直観と黒パターンの違いは、 その動機をみればわかるので、 ちょっと立ち止まってみるのは大切ですね。 ・・・PCから、話が飛躍してしまいましたがー 今日はGW最終日ですので、 家でのんびり過ごしたいと思います。