一緒にご飯を食べたいということ
一緒にご飯を食べると、ちょっとだけその人との距離が縮まることがあります。 普段よく会っているような人であっても、 お腹が空いてご飯を食べる・・・という本能的なひとときを共に過ごすことで、 (そのご飯が美味しければなおのこと)それだけで少し嬉しいような、ほっとするような気持ちになります。 できればそんな気持ちにその人となりたくて、自分は誘ったのかもしれません。 じゃあどうして、そんな気持ちになりたかったのか(相手にもなってほしかったのか)? という理由をみていきます。 何となく、最近、ちゃんと話しをしていないなあ あのとき何を考えていたのかなあ 楽しく、仲のいい関係でいたいなあ そして、たどり着いたところは、自分はどう思われているんだろう・・・ つまるところは、●よく思われたい、という小さなパターンがくすぶっていたんだと思いました。 そのパターンを満たしたいために、自分は声をかけたんだと。 ですが、その自分の中にある黒パターンに気づいてしまうと、 たちまち心は落ち着きを取り戻したかのように、その後の選択肢が変わっていきます。 相手がどんなことを考えていたのか、ただただ知りたい、聴いてみたい、だけに転換されるのです。 そこでもしも、わからないことや、不安に思っていることがあったら、 自分が答えられる事であれば答えたいと思いました。 それは、自分にもその人が感じているであろうことへの葛藤が、 同様の経験があるために、少しわかるような気がしていたからです。 自分にも似たような経験があり、そのときの自分が思っていたことと、 その人の思っていたことはどう違うのか。 もしも、自分が想像できなかったような考えであったら、その考えはどこからくるのか。 純粋にそこから学びたいということへ、変わっていった感じがありました。 これは、完全に自分のために・・・なんだな、と思う。 自分がどう思われているか?というパターンが小さくなっていくと、 自分自身の話す内容もまったく違ったものになっていきます。 もうパターンを満たすためにがんばらなくてもいいので、 ゆっくりとご飯を噛みしめながら、 そして、出てきた話もかみしめながら、それに反応して答える自分は、 言葉足らずなところもあったけれど、とても自然な自分であると思いました。 そして、相手の話から、さらにまだ気がついていなかった、他のパターンも見つ...