教えて、教わる



世間一般的には、
親は子を育て、上司は部下を育て、
何かの経験年数が長い者が短い者へ教える、というのがあたり前になっていますが、
実際はその逆のことが起きているのではないかと思うことがあります。

その一つが、価値観の違いです。
自分がこれまで、正しいと思ってきたことや、
そうなっていくことが良いことだと思ってきたこと。
それが果たして、本当にそうなんだろうか・・・と思うことがあります。

一般的にはどうか?という視点もあります。
例えば、多くの人が、
それはできてあたり前でしょう~って反応するようなことについては、
とりあえずできていた方がいい(その方が生きやすい)と思うところは確かにあります。
でも、本当にあたり前にできなければダメなんだろうか?
と思うこともしょっちゅうあるのです。

そこに捉われるから、心がのびのびできないんじゃないのか?
単に、自分がしてきたことを、自分の価値観を肯定したいがために、
同じことを教えたい(させたい)というのもあるかもしれません。
その気持ちに気づいてしまった時は、教えられなくなります。

教えるという立場になったとき、
『あたり前』とか『一般常識』なところから外れないようにさせたがるのは、
自分もそうしてきて良かったと思っているから、というところが大きいです。
でも一方で、
それがあるから自分は縮こまってしまった、
そうしない人を見ると腹が立ってしまうようになった、のも事実。

だから最近は、
教わった通りにしなくても、
自分がしたいようにのびのびやればいい、と思う。

自分が経験したことや、心からそう感じたという体験でしか、
その人のものにはならないのだと思います。
教える方の期待はパターンでしかないんだなあと思いました。
相手を自由にさせる軽さを持つことは、結局自分も自由にいられるということだと思います。
心を開いていくという経験から、自分もたくさん教われるのだと思います。
そうして、育ててもらっている。

いろんな価値観に心が揺れながら、
もしかしたら、それもこれもいいかもしれないと感じている。
いいなと思う価値観(これもありだな!と思う)がこの頃増えています。
その中から自分は何を選んでいくのか・・・






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