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9月, 2022の投稿を表示しています

自分にとっての真理

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同じ一日であるのに、同じ24時間であるのに、 時間の流れ方が少し変わってきていているように感じます。 何が今までと違うのかなと思うと、時間の使い方ということではなく、 自分の中に軸が一本立っているような感じが、いろいろなことに対して、 今までと違う感覚(違う展開)をもたらしているように思います。 その軸は、ガシッとした強くしっかりしたものではなく、 むしろ、しなやかでどこまでも曲がって、反り返って、でも元に戻れるような感じのものです。 そういうものが何か自分の中に一本通っていることを感じ、 この軸があれば、未熟な自分であってもいいんだと思えるような気がします。 そう、しっかりとした自信がついた、強い自分ではない・・・ ということを知ったような、わかってきたような、 それでいいからやってみよう!という感じです。 時間の使い方も自然と、 今を意識して、今話そう、今聞こう、今休もう、今やろう、 というように今を見ていることで、その先がすぐに繋がっていくように感じられます。 地に足をしっかりとつけながら、 でも意識は、青い空を見上げるように(今日はまた秋晴れの気持ちのいい青い空だった)、 どこまでも無限に広がっていく自分も感じられるような気がしました。 ゆったりと行こうと思えば、ゆったりとした流れを作りだし、 広く大きな目で見ていこうと思えば、小さなことが気にならなくなっていく。 自分が進んでいけば、物事もそんな自分の呼吸に合わせて進んでいく。 思っていること、そうなっていきたい、そうありたいと思うこと、それらがはっきりとイメージできると、 確かに自然に流れに乗れていくのかもしれません。 ちょっと抽象的な話になってしまいましたが・・・ やってみたいことを、制限しないとしたらどうなるか? また、やってみたいことを今あるものでやってみるとどうなるか? 自分の考えが及ばないほどの可能性がそこにあり、 その時の感覚だけで動いていくことは、 決して現実的ではないとは言えず、 むしろ現実化していくもののように感じるこの頃でもあります。 とすると、今まで自分が思っていた現実って何だったんだろう。 現実に考えることも、何をもってそれが現実ということなのか。 固定観念のようなものを持つことが現実だと思っていたのかなあ。 見えないものを大事にしていきたいと思う自分は、 その見えないもの(思い、...

どんな気持ちになりたいか

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今日から仕事でしたが、一週間ぶりの出勤にあたふたするかと思ったら、 意外と落ち着いて午前中を過ごし、 その後もひとつひとつの仕事を丁寧にやっていけたような気がしました。 旅から帰って、現実に戻った・・・というよりは、 どちらもはじめから現実だった(と思い出した)。 仕事をしていても遊んでいても、好きなことだけやっていたとしても、 どこで何をしていても、自分は自分らしくしかできないものなのかも(そうなっていくもの?)。 そして、やはり白を選ぶということが、自分にはとても必要なことです。 その「白を選ぶと決める」ということが、より具体的な行動へとつながっていきます。 先に具体的にこのようにふるまおう、そういう考え方をしよう、こんな風に話してみようと考えるのではなく、 あくまで、何をするかではなく、 どんな気持ちになりたいかを想像してそこに浸ることが先なのだ。 これは、黒をだめなものとせず、黒があるままで、白の比重を大きくしていくこと。 仕事をする、には変わりないけれど、いい感じに楽にスムーズに流れていくような、 こ・う・い・う・き・も・ち、で進んでいくのはいい。 だからやっぱり、何を選んでも同じ・・・ではないのだと思った一日でした。 今週はまだまだ体に疲れが残っているので、 特にこの気持ちの部分は、その疲れをとるにしても重要な存在です。

雨時々曇り

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     多治見モザイクタイルミュージアム、かわいい! 雨の中の旅行も終盤です。 今回、旅に出る前にわたしは、 何か思うようにいかないことがあっても、 「それでいい」を選ぼうと決めていました。 そして、一応夫には、 今までの車中泊で起こったことで、 一番自分が(自分のパターンが)嫌だったこと、不安に感じたことを伝え、 できればそうならずに数日間を過ごせたらいいなあと話しました。 雨が降ったりやんだりで、 夫がどうのこうのというだけでなく、 予定がズレまくり・・・ うわあ〜パターンがうずいていると察知しました。 でも、今までと違うのは、 はじめに思うようにいかないことがあっても、 「私」はこっちを選ぼうと決めています。 多少、揺らぐことはあっても、 気持ちを自ら重くしていくことはせず、 軽く軽く、なんとかなるさあ〜、それでいい、それをやってみよう! 視野を広げ、心を少しずつ開いていけるようにできた感じがしました。 これは今回、自分にとって大きな経験でした。 お互いの関係が、ぎくしゃくしないだけでなく、 狭い車の中に長時間いてもなお、程よい距離間を保てている感じがありました。 心なしか、 雨に濡れても、雨で予定を変更しまくっても、 行く先々の見るもの聞くもの体験するものを、 会話を通じて緩やかに過ごしたり、楽しんだり、 うとうとする時間が長くあったりしながら、今までよりずっと楽でいられるようになってきたかもしれません。 こういうことも、慣れというか、練習していけるものなんですね。 家族に対しては、パターンを野放しにする自分がいて、 それはそれで悪くはないかもしれないけど、 関係性を変えていこうという意志が弱かったのかなと思いました。 毎日の生活となると、 ちょっとしたことで腹を立てるようなことでも、 旅行のように限られた時間(しかもケンカ後も二人きりは続く)であれば、 不快なまま一緒にはいたくない。 恰好の練習の場になりました。 銭湯に入りながら、自分(パターン)への語りかけもぶつぶつとやり、 パターンが落ち着いていると、体の疲れ方が全然違うことも身に染みてわかるのでした。 明日はやっと朝から太陽が見られそうです。 やはりお天気がいいに越したことはありません! 明日も変えられないものは潔く受け入れ、 変えられるものは、変えられるだけの勇気を持って足取りも軽〜く、といきた...

郡上八幡

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                        山のてっぺんにお城! 今年初めての車中泊の旅。 新潟、富山を通り、岐阜の郡上八幡に来ました。 郡上おどりで有名ですが、お祭りも終わり(三十夜に渡り一夜一会場で踊っていくのだそう)、 静かな日常が戻ったところでした。 ここに来たかったのは、 何十年も前にテレビでみた町並みの美しさに惹かれたからでしたが、 実際に来てみると・・・ 時代を継承する努力を感じつつも、 人って昔ながらの生活を続けられるんだと、 わたし自身が確認しに来たように思いました。 川底が見えるほどに水が美しい吉田川。 町中の水路に沿って建てられた古い家々がつながる風景。 日々の生活の中で自然と土地の地形に折り合い、 みんなで豊かに暮らすうちに、この町の人たちの生活への美意識が高められたようにも感じられました。 たまたまそう暮らすしかなかったのかもしれませんが、 与えられたものを、これだけ豊かに、 祖先から受け継いたものを誇りとして受け入れて生活していくというのは、 外から来た人にとって、とても新しい生き方に見えるのかもしれません。 町中にはいくつもの水が流れ、そこには小径(こみち)があり、鯉や魚が悠々と泳いでいます。 町の人たちが当番制でお掃除しているようでした。 水汲み場やちょっとした腰掛け場もたくさんあって、 すれ違う人との挨拶からはじまり、 腰を下ろして語り合えるような緩やかな時間も生まれるんだろうなあ。 町を見守るかのように、山のてっぺんには真っ白い郡上八幡城がそびえたちます。 城下町を歩きながら感じたのは、 人は悩み、苦労をし、学び、喜び事を見つけ、それぞれの役目をその時代ごとに果たしてきたのだということ。 今よりも、自分の立場や身分を理解し、役割を意識していたのではないかと思いました。 吉田川では鮎釣りをしている人たちもたくさんいて、 わたしなら、ぼーっとただただ水の流れを見ているだけでいいな思いました。 散歩中の犬が通ったら犬をなで、 我が物顔で歩く猫に声をかけ、 水筒の中の湧水を飲みながら、この川のそばに居ると本当に気持ちがいいです。 たくさん歩いてのお楽しみはお食事タイム。 生まれて初めて飛騨牛というものをすき焼きでいただ...

グループで学ぶ

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岩手クラスのセミナーが終わり、勉強会も終わり、 今思うことは、茅ヶ崎から遥々来てくれる先生はもちろんのこと、 グループのみんなと学べることの尊さです。 自分のよくわかっていないところ、黒パターンで話してしまうところ、 そして、それらに悩み苦しむ自分を見せながら学ぶ。 自分はどう感じているのか?というところに抵抗なく向かっていけること。 そういう環境を創り出すみんなの存在と、この時間は、 自分にとってかけがえのないものだと感じます。 グループで学ぶといっても、 やることは(自分のケアは)自分でやるしかありません。 セミナーから一歩離れたら、 そこからは個人個人がそれぞれに自分の言動に向きあっていくしかない。 そこには、とても孤独な自分(孤独な作業)があります。 でも、その孤独があるから自分を観察できるのだと、先生は言っていました。 今回のセミナーでは、 速さ、明晰さ、感覚的、直感的、流れに乗る、決めつけない、ごまかさない、ぼーっとしない、本気で考える等々、 これまでにない時の速さを感じ、 いろんなことがよりスピーディによりはっきりとしていくことを感じました。 先生がいつもと違う・・・ それもこの流れに乗っていけるように、ぐいっと引っ張ってもらっていることを感じました。 展開が速いことに、あれこれ考え込んでストップをかけたくありません。 今までの思考癖から脱し、古いしきたりにとらわれず、 日々生まれ変わっていくように、自分の感性を信じて前進していきたいと思いました。 縁あって一緒に学びあう仲間に、 いろいろなパターンを許せていない自分を見せています。 自分自身のパターンのケアが、自分を深めてもいくだけでなく、 相手のためになっていくこともある。 どこで何に役にたっているかは、天の計らいゆえにわかりませんが、 自分にとってとても必要な存在であることだけはわかります。 来月もみなさん、またよろしくで~す。

答えがポーン

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  「できる自分を見ると嬉しいんですよね」 とある方が言ったことば。 これを聞いて、謙虚じゃないなとか、 よく自分のことを「できる」と思ったなとか、 または、とにかく嬉しいというのはいいことだとか、 そうそう、そうやって自信をつけていこうよ! とさらに励ます人もいたり・・・本当に人の数だけ、感じるものは違うのだと思います。 わたしは、その方が本当にしみじみと、嬉しそうに言っていたので、 この人は、今嬉しいんだな、と思いました。 そして、少し経ってから、 そうか、できる自分を見ると、安心して、勇気が湧いてきて、 普段の自分じゃないような、ちょっと別の世界を垣間見たような、 そういう嬉しさだったのかなと想像しました。 その人自身が自分への『可能性』を感じた瞬間だったのかなと。 なんかそんな表情だったなあと思いました。 こうして、言葉って、いかようにも受け取れるし、 自分で膨らますことができます。 自分の心がそこに反映するので(パターンが反応)、 自分のその時の感想というのは、今の自分の状態を知る手がかりとなる。 そこに相手は出てこないのです。 良い方に受け取れたからいいとか、悪いとかいうものでもありません。 その感情の動機として、 例えば、●できない自分はいやだ、というパターンがあれば、 だからこそ、他人のそれがうらやましい。 もし自分にもそんなことが起きたら嬉しい!と直ぐにも想像できます(パターンが満たされるから)。 だから、あなたにとっては良かったね、私は嬉しくないけど・・・・ という反応が正直なところだったりします。 ここまで細かく自分を見るのもどうかと思われそうですが、 それだけ心は複雑。 その感情、そう思うには動機があると、さらに観察してみるのもいいです。 わたしの反応として、 そのまま(相手の言う言葉通り、手を加えず)受け取れたことが、 その時はフラットな状態だったと知れてよかったと思いました(これも、その時は、ですね)。 また、その後の『可能性』について思いをめぐらしたのは、 自分も可能性を広げていきたいという無意識の表れだったのかなと感じました。 自分は今、そんな状態なんだなあ(そんなところにいる)と。 以前は自分のことがよくわからないと思うことが多かった(今もないわけではないが)。 でも、こうして、他人の発するものから自分の心の状態を見れるとい...

教えて、教わる

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世間一般的には、 親は子を育て、上司は部下を育て、 何かの経験年数が長い者が短い者へ教える、というのがあたり前になっていますが、 実際はその逆のことが起きているのではないかと思うことがあります。 その一つが、価値観の違いです。 自分がこれまで、正しいと思ってきたことや、 そうなっていくことが良いことだと思ってきたこと。 それが果たして、本当にそうなんだろうか・・・と思うことがあります。 一般的にはどうか?という視点もあります。 例えば、多くの人が、 それはできてあたり前でしょう~って反応するようなことについては、 とりあえずできていた方がいい(その方が生きやすい)と思うところは確かにあります。 でも、本当にあたり前にできなければダメなんだろうか? と思うこともしょっちゅうあるのです。 そこに捉われるから、心がのびのびできないんじゃないのか? 単に、自分がしてきたことを、自分の価値観を肯定したいがために、 同じことを教えたい(させたい)というのもあるかもしれません。 その気持ちに気づいてしまった時は、教えられなくなります。 教えるという立場になったとき、 『あたり前』とか『一般常識』なところから外れないようにさせたがるのは、 自分もそうしてきて良かったと思っているから、というところが大きいです。 でも一方で、 それがあるから自分は縮こまってしまった、 そうしない人を見ると腹が立ってしまうようになった、のも事実。 だから最近は、 教わった通りにしなくても、 自分がしたいようにのびのびやればいい、と思う。 自分が経験したことや、心からそう感じたという体験でしか、 その人のものにはならないのだと思います。 教える方の期待はパターンでしかないんだなあと思いました。 相手を自由にさせる軽さを持つことは、結局自分も自由にいられるということだと思います。 心を開いていくという経験から、自分もたくさん教われるのだと思います。 そうして、育ててもらっている。 いろんな価値観に心が揺れながら、 もしかしたら、それもこれもいいかもしれないと感じている。 いいなと思う価値観(これもありだな!と思う)がこの頃増えています。 その中から自分は何を選んでいくのか・・・

カフカのほとり

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『魂の道場』で学ぶ仲間のHPを紹介します。 小田島梢さん(こずえちゃんと呼んでいる)のHP 違和感のほとりーのびやかな自分で生きるー 力身のない軽やかな文章。 いつものこずえちゃんが、すぐそばで話しているような感じがします。 こずえちゃんといえば・・・ 勝手にわたしは、文学少女というイメージを持っています。 カバンの中にはいつも文庫本が入っていて、 いたるところで、スマホではなく、本を読んでいるイメージがあるのです。 ご本人は覚えているかわかりませんが、 以前わたしは、自分の若い時の引きこもり生活の話をしたことがありました。 もう自分は元の生活には戻れない、 何か『人間ではない生きもの』に自分がなってしまったような気がしていたと。 外にも出られず、起きてご飯食べて、そして寝る・・・ ただ部屋でじーっとするだけ、 ただ心臓が動いているだけの生活をしていた(っていう感じの話をしたと思う)。 その話をしたとき、 「カフカの『 変身 』みたいだね」 とこずえちゃんは言いました。 『変身』って・・・こんなにぴたりと言いあてた表現はないと思いました。 それよ!それ!なんでわわかるの~~~ こんな暗い過去をユーモアな例えで返してくれたことが、 とても笑えて、とても嬉しかったことを覚えています。 こちらの考えていること、感じていることを的確に代弁してくれるというのは、 本を読んでいるからこその言葉の豊かさと、想像力のたまものなんだろうと思います。 はっとするような、ものの例え、 微妙なニュアンスの使い分け、 話しと話しのちょうどいい間、 するどくも優しい核心をついた話。 自分もマネをしたい・・・けれど、これも個性の違いなのでしょうね。 他にも、着物をさりげなく着こなしていたり(以前はよくセミナーにも着ていた!)、 ほっこりするような文房具や雑貨を持っていたり、 お菓子作りがプロ級に上手だったり、 こずえちゃんの古風な可愛らしさ、器用さ、活発さが光ります。 これからもわたしの一番若い友として、 お付き合いのほど、どうぞよろしくお願いします。

いいところを探す

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4ケ月に一度、夫の受診と栄養指導に付き添っています。 夫の病気は服薬と食事が大事で(本来はここに運動も入る)、 受診の後は、指導された食生活に近づけることを誓うのですが~ 喉元過ぎれば熱さ忘れる。 ちょうど4ケ月後の受診日が来る頃には、このことわざ通りの生活に戻ってしまいます。 高いモチベーション、実行力が続くのは、がんばって2ヶ月くらいまで。 今日は、久しぶりの外食だから、ま、いいか・・・ 今日は一日がんばったから、ま、いいか・・・ 今日は暑かったから、今日は疲れたから、今日は・・・食べたいから。 と夫もゆるいが(はじめからゆるい)、 わたしも時間とともに、作る料理がゆるくアバウトになってしまいます。 診察室では、いつものことなのですが、 夫の変な質問にわたしのパターンが引っかかります。 今回は、病気とそれ、あまり関連がないんじゃない?と思われる、脈拍について。 血圧を測ると必ずセットで脈拍の数値もでますが、高めの血圧にはふれずに、そこに食いついた。 夫 :人生の中で、ここまで低かったことないんですよ! Dr:アスリートなんかは、こういう数字出ますよ。マラソン選手とか。心臓が強いから。 夫 :そうなんですか! そこからは、学生のときマラソンが得意だったとか、若い時はよく走っていて痩せていたとか、 昔話(自慢話)が続きました。 横にいたわたしは、そんな昔の話をしたって今は運動してないじゃん、 もういいから検査結果の話題にもどしてくれと思いながら、 なぜ夫は、こんな話を診察室でわざわざしたんだろう・・・と思いました。 しばらくたって、やっと自分の鈍感さに気づきました。 いつもいつも、病気を治す気があるのかとわたしに言われ続け、 夫はどんどん自信をなくしていたのだろうなと、思いました。 検査結果など簡単にはよくはならないことも知っているし、 診察室では毎回同じような話が繰り返されることもわかっています。 だから、脈が低い!それはアスリートの心臓と同じだ! という先生の言葉に『希望』を見出したのだと思います。 どこもかしこもいいところがない自分の体に、 やっと唯一いいところ(心臓は丈夫かもしれない!)を発見できた。 その嬉しさがあったのかもしれません。 夫婦って、わかっているようで全然わからないものです。 自分からすれば、もっと食べ方を気をつけてほしいし、 外食するときも...

言い訳する、しない

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宿題をしない子どもにお母さんが、もう宿題はやったの?と聞くと、 「あーもうー、今やろうと思ったのに~~~」 というやり取り、よくありますね。 そこで直ぐに勉強する子もいれば、 やる気が失せてしない子、あるいは言われなければやったのにといつまでもふてくされる子もいます。 まさに、大人になってもそんなことってあります。 今月からやろうと思っていたこと。 それを、いつになったらやるのか?(ちゃんと)やってください、と指摘され、 なんでこのタイミングで言うかなと、むっとしました。 こんなとき、 でもな・・・言われたことは事実だ、ということが頭をよぎります。 そこに相手の感情(思惑)を付け加えて受け取っているな自分、とも思います。 パターンのケアをしていくと、 言い訳を言って(ちゃんとやろうとしていたことを話す)、そして実行していくことと、 何も言わずに(つまり相手から、ちゃんとやろうとしなかった人間だと思われても)実行していくこと、 二つの選択肢にたどり着きます。 実行するには変りないのですが、そこに言い訳という名の説明を入れるかどうか。 指摘されたことは、まったくその通りだと認めてみる・・・ ああ、そっちの方がなんか軽くていい。 選択の結果、言い訳をしないでやるという行動をとります。 やってみると、指摘されたことにただ向き合うことが、自分を楽にしていくんだとわかります。 かえっていさぎよくそこに集中できた(かなりちゃんとやった)気がしました。 何だか自分がそこにはいないような・・・ いなくてもいいかもしれないという感覚もありました。 言い訳しないというのは(それが悪いわけではないが)、 非を認める、自分に気づく、ということなのでしょうか。 自分を主張させなくても、わかってもらわなくても、 それでも自分が保たれる、何とかなっていくという体験。 この感覚は覚えていきたいです。