少しの変化



●(親に)死んでほしくない、というパターンがあります。
そのケアと同時に、
自分だけの「死生観」を持つこと、そこに向き合うことが、わたしの課題だと思っています。

「死」については、30年前に自分は死ぬかもしれないと感じた体験がありました。
そういう体験があっても、死生観を持つまでには至らなかったのだと思います。

自分が死ぬことと、大事な人、愛する人が死ぬことは全く捉え方が違ってきます。
怖いものではない、不幸なことではない、失うことではない、とは言えないのです。
特に、いつか来る両親への死に対して、
頭だけで考えたものが行ったり来たりして、定まらない状態が続いています。

そんな中、一冊の本を読んで、
今の自分の課題とつながっていくものではないかと思うものがありました。
ベストセラーらしいので、読んだ方も多くいるかと思いますが、

ー覚悟の磨き方ー(時代のすべての異端児たちへ) 
超訳吉田松陰 編訳池田貴将 サンクチュアリ出版 

この本のはじめに書かれてある「心」について。

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結果じゃない

大事なことは、
なにを、どう手に入れるかではなく、
どんな気持ちを感じたいかなのです。
たとえ手にいれたものが、どれだけ美しくて広い家だとしても、
住んでいる人がやさしい気持ちになれないのなら、
それは貧しい人生です。(本文より)

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死について考える前に、
今、生きている親とのかかわりについて、
自分が最も優先するものは、やはりこれなんだと思いました。
母を助けることを自分が後悔しないようにやってあげることではなく(それもあっていいが)、
それをする自分は、どんなふうに感じてそれをしていたいのか。
そういう一つ一つの積み重ねを経て、
いつの日か、死に対しての哲学につながっていく、ということもあるかもしれません。

うまく言えませんが、
今までのように母のために、母が喜ぶ、母が笑顔になるためにそれをするのではなく。

例えば、母の家で。
冷蔵庫をきれいに掃除し、買い物してきたものを見やすく美しく並べ、
開けたら何か食べたくなるような、その空間を作ることに没頭する。
無心になってお風呂を洗い、ちょうどいい温度に沸かし、ふかふかのタオルを用意し、
今日はシャワーで済ませず湯船にゆっくり浸かりたいと思う、そんなお風呂をつくる。
窓を開け、すがすがしい気持ちで新鮮な空気を吸い、しばし鳥のさえずりを聞き、
伸びてきた庭の木を愛で、今度あの枝とこの枝を切ろうと考える。

わたしは良い気持ちでいる。
母は自由に過ごしている。

それで母が穏やかになってくれたらとか、
もう自分を困らせるような悲しいことは言わないでほしいとか、
そういうことではない。
むしろ、どう感じても、どんな気分になっていてもいいのです。
わたしがどういう気持ちでそこにいるのかは、母には関係なく、
いつでもどんなときでも、自分自身のことだけなのだと思います。

それが自分にとても必要なことだと思うし、
そうしたいのだと感じます。

今、少しの変化として、
いつかやってくるお別れのとき、
もしかしたら父も母も、会いたい人たちの元へ、待ち焦がれたかのように行きたいという気持ち、
幸せな気持ち、優しい気持ちでいるかもしれません。
もしそうならば、それを静かに見送れる自分でありたいし、
もしも不安そうにしていたら、「安心して大丈夫だよ」と言ってあげられる自分でありたい・・・
と思うようになりました。

だから、今から一つ一つの体験をどんな気持ちで感じたいか。
それを優先し続けることにします。














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