間がもつ

やっと岩手も梅雨明けし、猛暑となっています。
猛暑といっても夜は涼しい風があり、過ごしやすいです。

昨日は久しぶりに娘が泊まりに来たので、家の外で焼肉をしました。
お腹はぺこぺこでしたが、なかなか炭をおこすまで時間がかかり、
その間、沖縄名物の島らっきょうをつまみながらお酒を飲んでいました。

本題にいくまでの、この、『間』というもの。
思えば、自分は随分となにかを待てるようになっている気がしました(焼肉で気づく)。
以前は、早く美味しいものが食べたい、早くこれがしたい、
早くなんとかしてほしい、早く反応してほしい・・・などなど、待てないことが多かったなあと思うのです。
表面的には待てる振りはできても、
心の中ではせかせかしていたり、何か間がもたないような感じがあり・・・
不安や焦りや、苛立つこと自体が嫌であるため、
もう別のことをして回避しようとしていることもありました。

特に、会話がそうです。
話が盛り上がらずに、しーんとなってしまう時間が長いと、
なんだかむずむずしてきて、妙に不安になってしまうのでした。
こちらが話したことに対して、思ったよりも返ってきた言葉が少ないときも、
自分の話がおもしろくないからなのかなとか、
自分のことが嫌いなのかなとか、
いい方向には考えない癖がついていました。
そういう事態はなるべく避けようと、がんばってしまうのです。

それがいつの間にか、話さなくても大丈夫なんだ、間が長くても大丈夫なんだ、
という経験を積んでいくうちに、
その『間』はむしろ必要だから存在していると思うようになりました。
そして、大丈夫というのは、相手ではなく(相手のことはわからないため)、
自分が大丈夫なんだと感じ、またそれでいいと思えるようになった気がします。
間があることで、無意識に、自分の心の状態を観察する時間に使っている気もします。

考えてみれば、家族といるときは、
間=沈黙があっても平気だという方は多いのではないでしょうか。
それは、話がつながらなくても、反応がなくても、何もそこに意味がないから、大丈夫だから、
ということを知っているからできるのだと思います。
何か話さなければならないということもないし、どうにかしなければということもない。
あったとしても、それをそのまま表現するだけなので(「早くやってよー」などと言う)、
それが良い悪いと考えることもなく、ただ「早くやってよー」・・・なんです。

この軽さを、いつでも持つことができると、
時間いっぱいに何かをしなければならないということもなく、
待つ間も、充分に意味あるものがそこに生まれているような気がします。

焼肉が焼けるまでに、まだかな~と何かをしながら待っている自分も、
何もせず夕暮れを眺めながらたたずむ自分も、
どっちでもいいということ(そう思えること)が、とても楽なことだと感じた夜でした。







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