テスト後
試験、終わりました!
数日前からの大雨で、通る予定の道路が冠水し、到着まで冷や冷やでした。
到着後は、お腹が痛くなり時間ぎりぎりまでトイレにこもったり、
また、隣りの席のおじさんが、試験中何度も試験管に注意されたりと(なんで?)、
いろいろありましたが・・・何とか終わりました。
今回、勉強をしてみて感じたことは、
こういう詰め込み式の暗記勉強ではなく(←これは疲れた)、
専門の大学に入り、じっくり心理学を一から学んでみたかったなと思いました。
日常の、何気ない心の動きにも、
心理学でいえば、こういう現象が起きているということなんだとわかると、
少し冷静になってより自己観察ができるということもあり、
興味のあることばかりを存分に学べるって、本当に楽しいだろうなあと思いました。
でも・・・
自分の教わってきたカウンセリングというものは、そことは違うのです。
それらの知識を持ってしても、
日々の実践でしか意味を持たないものであると、
学ぶほどに、実践でこそ人は創られる、ということを感じました。
知っている・・・だけでは、自分の心は変わらないのだと。
心のからくりを知っている、話せる、だけでは、何も変っていかないのと同じですね。
心についての何かを知っているからと言って、
その人自身が、自分自身を観察し、受容し、行動を変え、
何度も良い心での実践をこころみているかといえば、
決してそうではない。
けれど、不思議なことに、
そういう知識があって、そういう話ができるというだけで、
その人があたかもそれを実践して生きている人、
なにかとても優れた人に見えてしまうということがあります(中には実際に実践で生きている方もいるでしょうが)。
勉強する側も、同様の錯覚があって、
知識をたくさん得ると優れた人になれる、と思ってしまうのではないかと感じました。
もちろん、知識は必要だし、
そこから発展させるということは大事なことだけれど、
そこで終わってしまう、満足してしてしまいがちではないかと。
仕事の場面では特に、
「知っていること」をまずは重視する傾向があるため、知識量に走ってしまうのかもしれません。
自己探求は、そことは真逆の世界にいます。
頭でわかったということではなく、
心でわかる、実感する、行動に表れる、というものがあります。
それが熟成されていくと、
「根拠はないけれど、大丈夫・・・」
という理屈では説明できないようなことも起きてくる(もっとわかると、そこも説明できるのだが)。
それが、知識が実になる。
または、智慧のある人になっていくことでもあるかもしれません。
知識が自分自身へ深い気づきをあたえ、
自分のため、人のために生かせるものとなっていったらいいなと思いました。
自分が知りたいと思うことへの学びは本当に楽しいものです。
そして、つらいけれど、大変だけれど、でも楽しい。
という感覚は、自分にとっての真理だと感じます。
この真理への感覚を、
再度、ここで感じ取っていくことを教わったような気がします。
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