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12月, 2022の投稿を表示しています

一歩を踏みだす勇気

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自分に必要なもの・・・ 真っ先に頭にうかぶものは【勇気】です。 自分がケアするパターンを見つけたとしても、 そこから実際に言動を選びかえていくには、実践という勇気がいるからです。 本当の「私」が選択したものは、 なんとも言えないやすらぎ、広がり、こころの軽さを感じます。 その感覚にひたりながら、 実際の言動を考えていくのですが、 ここでもやはり、広がりや軽さを感じられるものはなにか?と選んでいきます。 でも、さっきまでパターンが騒いでいたものにふれると、 そのパターンでいることに慣れ過ぎてしまっているので、 変わるという勇気がしぼんでしまいます。 怖くなってしまって、また心はふさがり、 重たい空気に包まれてしまうのです。 ここから抜けるには、 あの「私」が選んだ感覚を思い出すこと。 そして、一歩を踏みだす【勇気】なのです。 いざ、勇気を持つと自分が決めると、 本当におどろくほど、というか、 あっけないほど、 この行動をしてよかったと思う結果につながります。 今までとは違う道が、どんどん目の前に広がっていくような感じがするのです。 それは、 もう大丈夫!ガンガン行けるぞ、 という派手なものではなく。 そうだよね、こんなふうな気持ちでいたかったんだよね、という、 ささやかでありながらも、進みたい道を自然に進めるよろこび。 といったらいいでしょうか。 いろんなことを日々思い出しながら生活しているのだと思いますが、 こういう感覚を日に何度も思い出すということは、 カウンセリングを通して学んだことの一つでもあります。 知識とはちょっと違う、自分が感じとるというもの。 パターンを選びかえることに勇気がいるものと、 そうでもないものと、パターンの根深さでいろいろあります。 今年も残りわずか・・・ 勇気を使っていこうと思います。

親としては・・・

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Xmasが近づくと、 娘の誕生日とあわせて洋服のプレゼントを一緒に見に行きます。 娘としては、買ってもらうのだから、 普段買わないようなものにも目がいくし、 私は、実用的に仕事でも着れるようなものがいいんじゃないかと眺めています。 何回も試着をし、 やっとセーターと流行りのベストをプレゼントしました。 この時間が、毎年とても楽しくてうれしくて・・・ たぶん娘がいい歳になっても、 わたしの収入が減っていっても、 小さくかたちを変えても、このお祝いは続くのだろうな~と思います。 娘と離れて暮らすようになって5年。 夫には車関係の用事で、私には食糧の調達で、 ちょくちょく帰ってきます。 娘が帰ってくると夫は、 しっぽ全開にふる犬のように大喜びです。 でも、私とふたりでどこかに出かける話を聞きつけると、 これまた飼い主が出かけてしまうのを察した犬のように、しょんぼりしています。 そのわかりやすいリアクションをみて、ゲラゲラ笑う娘と私。 そんな日常に幸せを感じています。 以前は、『親』という言葉を自分が使うことに、 ためらいというか、 申し訳なさというか、 心に何か引っ掛かるものがありました。 親としては・・・子どもにこうなってほしい、 というフレーズをよく耳にするとき、 確かに自分も親なんでしょうが、 本当に親らしいことをしてきたか?というと、 自信がありませんでした。 『親』というには血のつながりだけではないのは、わかっていても、 母親として欠けているものが自分にはあるんだと思うと、 とても複雑な気持ちになります。 もしも、出産という経験があったら、 もっと正しい愛し方(とにかく愛情たっぷり)で育て、 娘はもっともっと幸せだったのではないか・・・ という思いが心の奥にずっとあります。 あのとき、もっと抱きしめてあげればよかった。 あのとき、どうしてもっと話を聞いてあげなかったんだ。 あのとき、あきらかに娘をにくたらしいと思った。 親だったら、ちゃんと抱きしめてあげただろうし、 小さな子どもの話は聞いてあげただろう。 にくたらしいなどと、そういうことを感じる自分であってはならないと、 そう思う母親などこの世にいないのだと思っていたからです。 3歳から急にママという存在の人が現れ、 私も急に子育てがはじまり、 元々親子だった夫と娘の仲のよい関係にやきもちをやくこともありました...

南部湯守の宿

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つなぎ温泉 に行ってきました。 この日をどんなに待ちわびたことでしょう! 地元ですから、車で30分ほどで到着。 なんかもう、気持ちがうっきうきで、 箸が転んでもおかしい年頃・・・ではないはずなのに、 楽しくてしかたありませんでした。 料理も温泉も、部屋でM1を見ながらくつろぐ時間も、 すべて大満足でした。 帰るときは、まだまだここに居たーーーい! 延長料金っていくらかかるんだろ? と、ホテルの人に聞いてみようかと思ったほど。 (それは無駄使いだ、と思い直す・・・) 雪景色を眺めならの露天風呂って、 本当に気持ちがいいですね~最高でした。 で、・・・ なんでこれほどまでに楽しいんだろう、とふと思いました。 おもしろいだけでなく、 温泉で身も心もあたたまり、くつろぎ、 この大自然の恩恵に、疲れもすっかりとれていくようで。 たぶん、わたし、 今日までがんばったんだろうな。 と思いました。 (自慢したいのではないですよー) がんばったこの3か月あまりのことを思い、 それへのご褒美をもらったように感じたのでした。 こうして、自分自身が、 素直にうれしいとかほっとするとか、 感じられたことがよかったなと思いました。 温泉に泊まりに来れたというのも、 両親が何事もなくこの2日間いてくれたということもあるし、 会社も休みをとれたということもある。 また、夫も元気でいてくれたから一緒に行くことができた。 そういういろんな条件がそろって、 温泉を満喫できたのだということで、 喜びもひとしおだったのかもしれません。 感謝したいです。

みんなで共鳴

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今日は今年最後の、いわてクラスの勉強会でした。 なにを勉強したか・・・? 内容をはしょりますと、 自分が一秒一秒、どんなカードを選んでいくのか! それにつきると思いました。 そのために、パターンのケアをとおして 本当の「私」を育てていきたいですね。 そしてまた、自分から発せられるものが、 よりクリアになって、よりよいものであれば、 それをサポートしてくれる、後押ししてくれるものも動き出します。 今日は、それらをあらためて考える機会となり、 とてもとてもよかったです。 それもこれも、そこに集まる人の、 よいものを選んでいきたいという素粒子たちが、 共鳴し大波を起こし、結果を導きだしたのだと思いました。 先月のセミナーに参加できなかった、 Yちゃんのおかげです! みんなでYちゃんに学んだことを伝えるという今日の勉強会。 実は自分が一番ためになった・・・のでした。 みんなの板書での説明が、 おもしろくてわかりやすくて、素晴らしかった。 誰かの不調があって、 自分たちがより学びを深められた・・・ということがあるので、 自分一人に起きていることではなく、 いいこともそうでないことも、 常に誰かに影響をあたえているのですね。 そして、 来年の岩手合同セミナーにむけての役割分担も、決定! どきどきしながら、 7人で発信していこうと思います。

小学生の忘れもの

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今日はとても寒い一日となりました。 雪もけっこう降りましたので、朝は道路も渋滞となって、 遅刻しないかどうか、祈りながら出勤しました(なんとかセーフ!)。 よく見る夢で多いのは、学校や職場に遅刻するという夢です。 時計を見ると、完全に間にあわない。 というより、もう数時間は過ぎてしまっていて、 遅れた言い訳を必死に考えている・・・というものもあります。 そこにプラスαで、忘れものがある。 というのもよく見る夢です。 遅れたぶんざいで、さらに持ってくるの忘れた! それはそれは、ひやひやもんです。 あーーーまたやってしまった、 と夢の中でひどく落ち込んでいることもあります。 おそらく、この手の夢を見てしまうのは、 小学生の頃の強烈な思い出にあると思っています。 体育でスキーの授業がありました。 たしか小学2~3年生だったと思うのですが、 前の日から、よくすべるようにとスキー板にロウをぬって準備をしていました。 スキーは結構、子どものレベルでは滑れていた方だったので、 得意なところを見せたいという気持ちで、 うきうきしながら朝を迎えたと思います。 当時は時代がまだ、車を運転しないお母さんが多かったので、 今のように、学校に子どもを送っていくとか、 スキーを運んであげるということもなく、 子どもたちはみな、親に頼らず、重たいスキーやスキー靴を自分で持って、 息を切らしながら登校していました。 2日間にわたって運ぶ子もいましたが、 わたしは持っていく日の話をちゃんと聞いていなかったのか、 1日で持っていくことになりました。 雪道で、ただでさえ歩きにくい中、 学校にやっとの思いで到着するとー みんなの様子をみて、すぐに顔が青ざめました・・・。 ラ、ラ、ラ、 ランドセルわすれた!!! 一目散に、家までの近道を泣きながら戻ります。 雪にずぼずぼ足をとられながら(長靴の中に雪が入って冷たかった)。 だれも歩いた足跡などない、まっさらで真っ白い雪におおわれた広い畑。 そこを少しでも近道したくって、 対角線上によこぎり、ひたすら家を目指して歩く。 本当だったら、こんなきれいな雪の上を歩けるなんて、 そんな贅沢めったにないことなのに。 味わってはいられない。 足跡がないところって、 早く歩きたくても、ずぼずぼ入って歩けないんですよね。 全然進まない!というもどかしさに、また泣く小学生のわた...

引き出しを忘れるな

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先月から、ある新しい仕事に取りかかっています。 その動きが今月に入ってより具体的になり、 自分の気持ちは、 そこにぐーーっと集中している感じがあります。 自分が想定していなかったこともいろいろ起きて、 他のことはもう何も考えられず・・・ 頭がパンクしそうになっています。 当然、そういうときは、 なにかしらのパターンにも引っかかっていてー。 ●(能力がないから)自分にはできない ●(やることがいっぱいで)一人では無理 ●(センスがないから)自分にはつくれない ●(経験がまだまだだから)自分には書けない と、どれもこれも『自分にはできない』というパターンのすりこみが、 あらためてすごいなあと思いました(感心してしまった)。 自信などはじめからなかったけれど、 自信がないからできないと言っていたら、 一生なにもできない。だから、やる。 しかし、そもそも、 今自分がはじめようとしていることは、 本当に自分がやりたいようにやっていけるものだろうか。 この選択は間違っていなかったのだろうか。 周囲の反応に、 また胸のあたりがざわっとしているときがあるのです。 ぶれずに突き進むーって、 とてもかっこいいことだけれど、 こうして迷いながら、悩みながら、 心臓がばくばくしていながら、 相談してみて相談しなければよかったと思いながら進んでいる自分は、 はじめの勢いがゆらぎだし、 パターンのケアを毎日している状態です。 結局は、自分がどう在りたいか。 本当にそれにつきる。 すべてが自分の思う通りにはできないけれど、 今、自分がやっていることの目的を見失わないようにしたい。 あたえられた環境でまずはやってみよう。 失敗を恐れず、自分らしくやってみよう。 なんか違う~~って思ったら、 ぐいっと方向転換をしていこう!とあらためて思いました。 そして、自分の中にある本当の「私」を信じて。 変えられることと、変えられないことを見極めていこう。 こうして日記を書いていると、 自分の引き出しって結構たくさんあるのに(誰にでもあります!)、 自ら開けてみようとしないだけかも・・・と思いました。 ・根拠はないけれどやれそうな気がする ・黒パターンに『だまりなさい!』と言う ・大元とわたしはパイプでつながっている ・わたしは白パターンを選ぶ、選ぶ、選ぶ ・自分は非凡な人間です! などなど、まだまだありました...

みんなちがって

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人それぞれでいい!と思いました。 みんなちがって、みんないい・・・ と言ったのは、詩人の金子みすゞさんでしたね。 先日、自分と意見がまったく逆の話が出て、 わたしは自分の考えについてあれこれ話しました。 それを聞いた相手は、自分はそうは思わないと、 やはりあれこれ言ってきます。 どこまでいっても平行線のまま。 でも、翌日、もう一度相手の言ったことを考え、 この違いは、経験の違いなんだと思いました。 相手が経験していることを自分はしていない。 また逆もしかり。 だから、それぞれが体験したことをもとに考えると、 答えが違うということだったと思いました。 また、今日は、かかりつけ医のところに行ってきました。 先生は、最近急激にコロナ感染者が増えたこと、 インフルエンザと同時にかかった患者さんがいて、 市内の病棟がもういっぱいになってきて大変な事態になっていること、 こんな状況なのに、岩手県民はもう自粛することを忘れてしまったのか、 忘年会なんてしているところもあるし~まったく! と言っていました。 先生が、話した内容よりも、 診察時に結構な時間、患者であるわたしとおしゃべりをしたことに、 正直おどろきました。 しかも、 会社の忘年会で、わいわい楽しく飲んできたばかりの自分。 先生が、まったくけしからん!と思っている人間が、 今、目の前に座っていますよ・・・ 自分が思っていること、感じていること、していること、 それらとは違うものをもっている人たちがいます。 その違いがあっても、こうして関係性が築けていて、 なるほど~と思えることもあって、 適度な刺激や発見をもらい、 違いを知ることが、自分を豊かにしてくれているような気がしました。 そして、そこに、違いを悪とせず、 どちらが正しいということも思わず、 ただただ話を聞いていく。 すると、相手が違っているという視点から、 自分が違っているという視点にもなるなあと思いました。 世間一般的には、相手の言っていることが多数派で、 自分はごく少数派。 それだけのこと、といえばそうです。 多数派も少数派もどっちもいい、ということですね!

心と体はつながっているという意味

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心と体はきっても切れない関係があります。 ・・・って言ってしまうと、 体調不良は心の問題と、そこにフォーカスしてしまう方は多いように思います。 自分は心が不安定だからだめなんだとか、 心が弱いからだとか、余計に考えてしまうのです。 道場では、そう思っているのは『パターン』であると言い切ります。 そう思う気持ちも、実はとても大事な存在であり、 消さなくていいものであり、 むしろ、そう思っていていいのだという考えです。 それは、『心に問題があるから体調不良になるんだと思うパターン』も、 自分自身であるからです。 体調不良は心の問題だ・・・ と世間一般的に理解されるようになってきて、 それが心に向き合うためにいい面もあるのですがー 一方で、体調不良だということすら、 なにか罪のように、言えなくなってしまう風潮もあるように思います。 ちょっと具合が悪いんです、休みたいんです、疲れてしまったんです、 と言ってしまうと、 自分が(自分の心が)問題を抱えていますと認めてしまうような、 怖さもあるのかもしれません。 なにか悩んでいる? なにかあった? と、他人に知られてしまうことの、恥ずかしさのような、かっこ悪さのような、 自分の弱さを知られたくないと感じてしまう人もいる。 そう、弱いことはだめなことという思いこみも、 パターンであるだけで、本当の「私」はそこにだめという判定はしません。 心と体はつながっているということの、 本当の意味はなんでしょう。 心が悪いと体が悪くなる、心がいいと体は悪くならない。 という両極端な感じのものが、意味付けされていると、 かなりしんどくなってしまいますね。 そうなると、 元気はよくて、元気じゃないことは悪いこと、 にもなってしまいますよね。 これは、子どもは元気が一番とか、 早く元気になってね、とか、これも、 元気になることがいいことで、それ以外の状態はだめなんだよ! という教えみたいだなと思いました。 さらに、元気=正しく生きている、それ以外=間違った生き方、 みたいにもなっているのでしょうか。 大人になっても、 体調の良し悪しで、なんとなく人の心の状態まで同様に捉えてしまいがちですが、 体調が悪くても気持ちが前向きになっているときもあれば、 健康なときよりも心おだやかに過ごせることもあるのです。 心と同様、肉体も巧妙で繊細で非科学的ですので、...

自分勝手にやってみる

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今朝は雪が降りました。 すぐにとけてしまうような小雪でしたが、 今年も長~い冬が来るんだなあと、ちょっと覚悟した朝でした。 今日は、世のため人のため、 そして自分のために仕事をしているという話を聞きました。 世のためと人のためというのは、 自分が充分幸せでないと、なかなかそうできないものです。 でも、もっと違う領域では、自分のことなどどうでもよくて、 人のため誰かのために生きている・・・ という人もいるのだと思います。 そこまで自分はいっていないので、 まずは自分がハッピーな気持ちでいられること。 そこを大事に、いろいろなことを判断し、決断し、行動していきたいです。 福祉の世界で働いていると、 いつも困っている誰かのために、 考えたり、動いたり、なにかしてあげているように見えるかもしれません。 人についてはよーく考えるけれど、 自分について、今自分はどう思っているんだろうか? などと、いちいち考える人は少ないと思います。 でも、そのわりには、 自分の都合で相手にしてあげていることってあるように思います。 自分の都合というのは、 自分がしてあげたいと思うことだけするということ。 したくないことはしないのです。 これって、自分勝手だと思われるかもしれませんが、 自分も万能ではない普通の人間ですので、 自分ならこれはできるけど、これはできない・・・ でいいのだと思います。 さらに、それをするときの基準は、 それをやって自分がおもしろいと感じるかどうか。 楽しいと思えるかどうか。 それをする、やる気に満ちあふれているかどうか。 そういう判断でいいのだと思いました。 そういうある意味、自分勝手さがあってもいいのだと・・・ 自分勝手という意味付けが変わってきたように思います。