嫌いは嫌いでも




このところ、嫌いな人のことについて度々日記に書いているのですが(といっても2つほど)、
また似たようなテーマで書いています。

好きな人がたくさんいる人、または嫌いな人がそんなにいないという人の方が、
何だかいい人っぽいという印象を持っている人は多いと思います。
他人の悪口を決して言わない、他人を干渉しないという人も確かにいます。
そういう人は、人を客観的に見れている、良い面をたくさん見れている、
物事をポジティブに捉えられる、心が広い、心にゆとりがある、そもそもやさしい、
そして人間ができているから・・・やはり、いいイメージなんだと思います。

でも自分のパターンには、
この人なんか嫌い~と思う人から、超嫌いな人まで結構いる。
もしも人前でそんなことを話したら、
人の悪い面ばかりが見えている、性格が悪い、優しくない、見ている世界が狭い、協調性がない、
自分のことを棚にあげている、そういうことを言う人とは付き合わない方がいい、などなど、
とにかく印象は、決していいとは言えないでしょう。
それだけ、人を嫌うということがどんなに人としていけないことなのか、
それを言ってはいけないのか、生まれてこの方刷り込まれてきているだと思います。

「もう~あの人嫌いだわ」
と言ったら、世間一般的にはどう思うか。
それは自分もよくわかっているので、
うっかり口にしないようにしようと思うことはあります。

でも、
自分のパターンの中に、嫌うことをゆるすパターンも存在していること(これが白パターン)を知ると、
その言葉の重さはなくなり、いやだったから、不快だったから、今この瞬間そう思っただけ・・・
という何ともあとくされのない、さっぱりとした言葉に変換されるときがあります。

パターンのケアをし続けていると何回に一回かは、
同じ「嫌い」という言葉を使っているのに、
心のもやが晴れていくような目の前が広がっていくような、
「嫌い」というイメージに似つかわしくない穏やかな自分を感じることがあるのです。
それは、言えてすっきりした、内心ざまーみろ的なものとは違うのです(←ここの表現がむずかしい)。
言葉通りに受け取ると、黒パターンで話しているかのように見えますが、
実際はこの感覚があっての「嫌いだ~」と言っているときは、
白パターンで言っている(白を選択して行動できた)、そういう「嫌い」なんだと思いました。

これは、世間一般的にいう「嫌い」ではなく、
「嫌い」をジャッジしていない、いいとか悪いとかがない、
「嫌い」と言った自分が周囲からどう思われるか気にならない、
ただ「嫌い」と感じた自分(パターン)がそこにいるだけ、
という新しい捉え方に変わっているということ。

だとしても、たとえ今までの「嫌い」の使い方と違っていたとしてもです、
本人の前で言ったら大人としてどうなんだ・・・・
ということはもちろんありますので、
あくまで、自分の心の中でのやり取りで想像してもらえたらいいかもしれません。

嫌いな人がいるというのは、いつまで経っても自分は人として成長できていないのではないか?
と思うことがあるのですが、
こういう人がいるから自分は成長できる、
むしろこういう人がいないと成長しずらいのではないか?と思ったりもします。
自分の人生にいてくれないと、自分の課題としては、学べないんだな・・・というか。

目標は、嫌いな人を克服することではないのだと思いました。
嫌いだと思う自分自身をゆるせて、
白の感覚を持ち続けながらどう接していけるのか。
本当の「私」が選ぼうとしている行動があって、それをどれだけその人たちの前でとっていけるのか。
そこを当面の目標にしていこう。














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