共感ってなんだ

「私」がパターンへ語るときの言葉は、
感情的ではなく、むしろ無感情で、シンプルで、
さぱっとしているような気がします。
(さぱっと・・・というこのアバウトな表現よ)

国王がその国の民へ語るのだから、決して軽々しいものではないのですが、
かといって、深刻さ、重々しさ、感情を込めた風ではなく、
すべて理解しているというところで、
冷静にパターンの気持ちを代弁しているだけにすぎないのだと思いました。

よく他人の悩みを聞いているときに、
今の自分は全くそうは思わないけれど、
その気持ちになってしまう状況は理解できる、ということがあります。
それは、共感しているという状態なのかもしれませんが、
本当に細部に渡り、同じ気持ちになっているかといえば違うのです。

特に、わかるわかるう~って言うとき、
相手のことをわかるよりも、自分がそういう気持ちになったことがあると、
そこを相手に知ってほしい自分側の欲求があるような気がするのです。
話を聴くときは、相手への共感を持って聴きましょう・・・
なんてことも昔よく言われたから、余計にそうなっている自分。

でも何となくこの頃、
安易に、共感できる、又は共感しようと思わない方がいいような、
いえ、共感しているかどうかよりも、
自分はこの人のことを理解しようとしているのか?
そっちが大事だと感じています。

これは、以前は「私」はどんなパターンの気持ちにも共感できるのだから、
だから守っていけるのだと思っていたけれど、
それもちょっと違うなと思いはじめているからだと思う。
じゃあ、共感って何なんだ・・・?

そう思っているあなたのことを、
「私」は理解したいと思っているし、守りたい(ゆるしたい)と思っていると。
こうなっていくと、共感より理解なのかもしれません。
その理解はパターンでの理解ではないし、
この姿勢は「私」のあり方に通じるところである。

「私」とパターン、国王と民。
わかるわかるう~・・・ではなく、
あなたをちゃんと理解しているよ、と包容力で宣言する関係。
この関係がとてもさぱっとしているのだと思います。






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