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4月, 2025の投稿を表示しています

ぬるま湯からの脱却

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職場で席替え(部署異動)することになり、 いろいろパターンが騒いだので、意味付けのワークもやってみようと思います。 あくまで、一般的にではなく自分にとっての、今捉えている意味になります。 【席替え】 − 落ち着かない 仲の良い人たちと離れる 寂しい 緊張 不安 モチベーションが下がる 中心にいない 孤立しそう 息抜きができない 中立 ただ一つの体験 絶対ではない + 新鮮 新しい発見 新しい関係性 利用者さんがよく見える よい緊張感 新しい学びが始まる 働き方が変わる こうしてやってみると、マイナスしかないと思っていたけれど、プラスに感じている部分も多少はあったんだな〜と少し安心しました。 マイナスを見ると、これまでのポジションでは、 自由に好きな時におしゃべりをしようと思えば出来る、楽しさが職場というものにはありました。 そう、なんだかんだ言っても楽しくやっていたんだと。 そして、気になったことはすぐに周りにいる人たちに聞くことができる、そういう環境下にいたことがわかります。 要するに、 自分が喋りたいときに喋って、困ったときは一歩も動かずとも何でも解決するような、 ぬるま湯に浸れたありがたーい環境だったのだと今しみじみと気づかされました。 社内の中心にでーんと座って仕事していたんだな、自分・・・ あれ?これってもしかして、御局様みたくなってはいなかっただろうか。 他人から映る自分の姿を、考えたことがなかったことにも唖然としました。 (このワークをしていなかったら気づかなかったかもー) 新入社員っぽい若い人たちを街で見かけると、 すでに新天地に、一歩先を歩き始めたあなたたちは偉い!って思ってしまいます。 まぶしく見えます・・・ 意味付けって、あくまで今、この時のものです。 また数か月後に、この意味付けのワークやってみよう。 窓際のワンちゃん、あれから 刈り取られました!  

もっと自分を知りたい

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『はじめて講座』 のお知らせです。 5月5日(月)やはぱーくにて、 13:30-15:00 お一人様限定で行います。 心のカラクリが、悩みの解決へ少しでもつながれることを祈って、 心をこめてお伝えさせていただきます。 こちらの講座、 今回でしばらくお休みさせていだたくことになりました。 講座再開の時まで、自己観察、自己探求を深めていきたいと思っておりますので、 どうぞよろしくお願い致します。 気になっていた方はぜひこの機会にどうぞ〜(GW真っ只中ですが) ご予約お待ちしております。 さて、 その自己観察と探求には、ワークが欠かせません。 白パターンを選ぼうと感じるには、 白の部屋に入ったときの広がりや軽さというものをみていますが、 その部屋から聞こえてくる言葉が、とても大事なんだと思いました。 どんなことを白パターンは言っているのか・・・ 不確かなものではなく、 まだ自分が経験していないものではなく、 とても現実的なものが言葉として選ばれるような気がします。 師匠からも、 「あ、それはまだできていないでしょう」と言われ、 あれ?そうか・・・まだ自分はそこができていないんだと、 人から言われて、自分を振り返り気づくことがあります。 自分がそうなれたらいいなという願望ではなく、 今の時点で成し遂げているもの、獲得しているものは、 そこを理由として白パターンを選ぶ感覚をよいものとして教えてくれます。 しっくりくる~っていう感じのものです。 ここは謙虚な気持ちで自分を観察していないと、 ちょっと違うことを言ってしまいそうになる・・・ 自分が何をこれまでやってきていて、何がこれまでやれていないのか? 自分自身のことなのに、これって、自分はできているのだろうか?と、 どれも自信がないようでもあり、 また、どれも自信ありでもあるのだ。 ワークを「私」でやるという意識が最後まで持続させる。 やればやるほど、わかるようでもあり、わからなくなることがあるこの学び。 単純なのに、どんどん難しさが出てくるようでもあります。 うーーん、だから、もっと自分を知りたくなります。 学校には桜が似合う

図星に反応

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あんな言い方されたくなかった・・・って思うとき、 大抵が、大事にされたい、雑に扱われたくない、下に見られたくない、といったパターンが反応しています(自分の場合)。 でも、言われことが図星すぎて、パターンが暴れまくるということがありました。 自分が気づく前に、または気づき始めた頃に、 ズバッと自分のしていることを指摘されると(相手はただ見えているままを言っただけかもしんないが)、 うわーーーそれだ・・・言われた・・・ 胸にぐりぐりと言葉が刺さりました。 言われる前にちゃんと自分で気づき、行動を起こすなりしたかった。 そう思うパターンは何なのか? 他人から指摘されたくない、言われたくない、自分のいたらなさを見透かされたくない、できないやつと思われたくない。 と、パターンは言っているんだなと思いました。 だから、あんな言い方されたくなかったと、言われる前に自分で何とかしたかったと。 もっと言えば、そんなふうに言われないと気づけないような自分ではないと。 ここにも●自分は特別だし一番だ というパターンが反応しているんだなと思いました。 図星なんてあってはならないんですよ、パターンとしては・・・ そしてこの「特別」「一番」というプライドがあるから、語りかけも充分にできていなかったんだなってしみじみ思いました。 できていないのにやれているという、なぜならば自分は特別な人間だから〜というプライドなのだ。 このカッチカチの思い込みに育てあげてしまったプライドへ、 「私」が丁寧に語りかけてあげよう。 桜がいっぱい〜うれしいな♪

開示から学ぶ

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昨日のクラスの勉強では、仲間からの開示がありました。 その話を聞いてすぐに自分の胸がざわざわしだし、 その話の出来事があった時もざわざわしていたのに、スルーしてしまったことが蘇ります。 今話しを聞いて、パターンを無視したこと、後悔の気持ちと共に謝りました。 確かに感じたことがあったのに、 そんなことはないか…と、打ち消すように何となくその場の流れにのってしまった自分。 やはり思いやりに欠けたパターンで取った行動だったと思いました。 そしてそれは、常にカードを選ぶ意識に欠けていたことを、 あらためて気付かされました。 白と黒のカードがあったとして、 それはいつでも自分の目の前に、宙にぽわんと浮かんでいて、 その時、パターンに支配されているのか、それとも本当の「私」で意識を持っているのかで、 つかむカードは変わるのです。 あ、このカードじゃなかったかも? と思った後に、違うカードをすぐに選び替える勇気は「私」であったならばできること。 常に常に365日、一日の中で何度も、 「私」がちゃんと選んでいる?と問いながら、 そこへ意識を向けることが大切なんだと思い知らされた気がします。 おそらく、意識しないとあっけなくパターンでやってしまう・・・ そういうところに自分はまだいる、ということなのだ。 とても正直な話をしているだけでなく、 自分がどんなパターンに引っかかり、 そのパターンは何と言っているのか、どんな気持ちでいたのか、 順を追って話し、 そして自分はどうありたいのか? こうやって自分のパターンを開示すればいいのだと、 教えられたようでもありました。 以前は、それはその人のパターンの問題だから~と思って終わることが多かったのですが、 その開示のおかげで、その時の自分のもやもやも話すことができ、 グループで学ぶって、こういうことなんだなあと(相乗効果なるものを)感じました。 これは、何十年も一緒に学んでいたから自然となるわけではなく、 話そうと思わなければ、何年一緒にいようとも決して得られない学びだと思いました。 すぐにその場で言えなかったとしても、 こうやって、 この前ね・・・って話せばいい。 やっとそんな話ができるようになりつつあることが、 ちょっとうれしくもあり、ありがたく思いました。 夜桜を見に高松の池へ (なぜかこういう写真になった…)

特別な自分

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ネガティブでもポジティブでもどちらでも、 結局は、自分は凡人ではなくある意味特別な人間だと思っているのかもしれません。 特別にネガティブな存在か、特別にポジティブな存在か・・・ または、いえいえ全然普通の、ごくふつーの人間です! と思っていることすら、 良く悪くもない、平均的だという普通という名の特別感があるのだと思う。 それは、言い換えれば、 自分は唯一無二の存在ということなんだと思う。 そういう自分(パターン)に対して、 やっと、そうやっと・・・です、 ●自分は特別で一番だ というパターンがあることを認められたような気がします。 特別であり、その特別感は誰にも負けないくらい一番なんだ・・・と。 結構なインパクトのあるパターンですが、 今、とてもしっくりきています。 そこで、「特別」というものの意味付けのワークをしました。 +の意味付けは、 一目置かれる、集団の中で優位、優先される、待遇が良い 他人とは違う、凡人ではない、優れている、守られている、大事にされている 素晴らしいこと、オンリーワン、うまくいく、気分がいいこと、安心 -の意味付けは、 錯覚を起こす、有頂天になる、偉ぶる、あたり前すぎて感謝がない、油断する 普通がわからなくなる、それ以外に弱くなる、それ以外が受け入れ難くなる 耐性がない、融通がきかなくなる、他人と自分を同じ人間だと思わなくなる そして中立は、ただ一つの体験です。 -で出てきた「耐性がない」というものは、本当にその通りで、 自分は特別なんだと無意識下で思っていると、 他人と比べて少しでも特別扱いされなかったと感じると、 そういう扱いに慣れていない(予測していない)ために、 もう、平常心ではいられなくなってしまうんですね。 もしかしたら・・・自分は特別で一番なんだって、 もう、決めつけなくてもいいのかもしれない・・・ と毎日つぶやいているのですが、 これはやってみると不思議に、 あーそうなんだな、凡人なんだな、特別なものなど何もないんだなと、 とても素直な「私」が感じています。 「私」の感情が静まっていくとき(「私」には感情はないから)、 もう特別だとか特別じゃないとか、そこにこだわらなくていいんだなあって、 心が軽くなっていくようです。                                                     ...

共感ってなんだ

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「私」がパターンへ語るときの言葉は、 感情的ではなく、むしろ無感情で、シンプルで、 さぱっとしているような気がします。 (さぱっと・・・というこのアバウトな表現よ) 国王がその国の民へ語るのだから、決して軽々しいものではないのですが、 かといって、深刻さ、重々しさ、感情を込めた風ではなく、 すべて理解しているというところで、 冷静にパターンの気持ちを代弁しているだけにすぎないのだと思いました。 よく他人の悩みを聞いているときに、 今の自分は全くそうは思わないけれど、 その気持ちになってしまう状況は理解できる、ということがあります。 それは、共感しているという状態なのかもしれませんが、 本当に細部に渡り、同じ気持ちになっているかといえば違うのです。 特に、わかるわかるう~って言うとき、 相手のことをわかるよりも、自分がそういう気持ちになったことがあると、 そこを相手に知ってほしい自分側の欲求があるような気がするのです。 話を聴くときは、相手への共感を持って聴きましょう・・・ なんてことも昔よく言われたから、余計にそうなっている自分。 でも何となくこの頃、 安易に、共感できる、又は共感しようと思わない方がいいような、 いえ、共感しているかどうかよりも、 自分はこの人のことを理解しようとしているのか? そっちが大事だと感じています。 これは、以前は「私」はどんなパターンの気持ちにも共感できるのだから、 だから守っていけるのだと思っていたけれど、 それもちょっと違うなと思いはじめているからだと思う。 じゃあ、共感って何なんだ・・・? そう思っているあなたのことを、 「私」は理解したいと思っているし、守りたい(ゆるしたい)と思っていると。 こうなっていくと、共感より理解なのかもしれません。 その理解はパターンでの理解ではないし、 この姿勢は「私」のあり方に通じるところである。 「私」とパターン、国王と民。 わかるわかるう~・・・ではなく、 あなたをちゃんと理解しているよ、と包容力で宣言する関係。 この関係がとてもさぱっとしているのだと思います。

「私」が育つということは・・・

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人は一度でも、他人に対して何か強烈なネガティブな感情がわくと、 次もその次もずーっとそういう感情を、 その他人がこれから先も自分へ与える続けるはずだ・・・ って思い込んでしまうのかもしれません。 例えば、自分を傷つけるような発言をされたとパターンが思い込むと、 もうその時点で相手にレッテルを植え付け、 その後、どんなことがあろうともその視点を中心に置いて、 相手を自分(パターン)にとって悪い人と決めつけてしまいがちです。 その狭~い世界から、突破するには、 その人を見る視点を変えてみる(自分側が変わる) ということなんだと、一般的にはそうなんだと思いますが、 その前にその傷つけられたと思っているパターンへの理解を、 充分にしていくことから始まるのだと思いました。 そうすることが、王である「私」がすることであり、 そうできるように育っていくことも、 王である「私」の使命なんじゃないかと・・・。 パターンのことを充分に理解できる王になるということは、 ゆくゆくは、パターン(自分)だけでなく、 その相手を理解することにもつながっていきます。 今までは見えていなかったことが見え(視点が変わるということが、ここから始まる)、 相手のことよりも、 なぜ自分は傷ついたと思いこんでいたのかも知るのだと思う。 それは相手の言動について、これこれこういう言い方があったから~ という分析ではなく、 自分のパターンに、そう受け取るまでの歴史というか、 パターンの刷り込みがしっかりと刻まれ続け、 それが自分にとっての常識、普通、幸せの基準になっていたのだと気づかされます。 そして、相手も同様で、 その人が今日まで生きていた歴史があって、 その人にももちろん、パターンがあって、 その人の常識、普通、幸せのかたちがあるのだと・・・ やっと少しだけ理解が進むのだ。 そして、いろんなことがちょっとずつ見えてきたところで、 自分はこれからどうありたいのか? ここへの問いになるのだと思う。 相手を責め、恨み続ける自分でありたいのか。 そうじゃなくて、 傷ついた自分(パターン)が過去にあったとしても、 そこに居続けたい自分でいいのか。 これからはそんな風に思った相手に対しても、 同じ人間として、 優しく大らかな気持ちを少しでも持って接していきたいと、そう心から思う人になっていきたいのか。 これを自分に問い...

こっちの生活もいい

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母との生活が1か月経ちました。 途中から娘も、休日返上で来てくれるようになり、 すべて何から何まで自分一人でやるということはなく、 夫にも支えられて、実家でのお泊り生活が続いています。 母が退院したばかりの頃は、 この先一体、自分はどこまでやろうと思っているのか? それさえも検討つかず、 リハビリもやってみないと分からず、で、 とにかく無理だけはしないように、 頑張り過ぎないようにやっていこうと思っていました。 ところが、 体力的な不安はありますが、 頑張りすぎないように・・・どころか、 この生活って悪くないなと思うようになってきました。 大変なはずの生活だったけれど、 心はなんだか落ち着きをはらってきて、 母中心の時間の中で、家事や介護に重きを置く生活も案外いいかもしんない・・・ と思うようになっている自分がいたのです。 そして、それだけではなく、 だからもうできることなら、仕事もしたくない。 もう、辞めようか・・・会社。 母と一緒に暮らすのは無理・・・って思っていた自分が、 今こうして、一緒にいても何とか暮らせるもんなんだなと知る。 介護で夜眠れないといっても、 元々浅く眠りが悪い自分だったではないか。 もし会社に行かなくて済むのなら、昼寝だっていっぱいできる。 ときどき家と実家の往復生活して、そうやって母のこともみていけるのかも。 なんてことを思う自分がいるとは・・・! でも・・・やはり、 これはパターンだったんだなと分かりました。 今は、母といても以前よりパターンが騒ぐようなことがほとんどなくなった。 そして、根本的には、 大好きなお母さんといっしょ~なわけですから、 自分のパターンとしては大ボスも大ボス、 ●ほめられたい、称賛されたい ●大事にされたい、気にかけてもらいたい ●認められたい、特別で一番でいたい といった大パターンが、 母によって満たされているわけです。 なんだか心が落ち着くと言っているけれど、それ、 誰がいいと言っているの? 誰が会社行きたくないと言っているの? 大変だと思っていた生活から次第に、 居心地がよくなったのは、パターンの居心地だった。 そりゃそうです。 社会に出ればいろいろな人間関係があるということだし、 パターンは騒ぎます。 それが嫌だし、面倒だったんです。 だから、介護というさも親孝行していますよ自分、 っていうことを表明し...

まだまだわかっていない

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2日間の合宿が終わりました。 3か月ぶりの 道場 を、とても楽しみにしていた気持ちと、 今の自分の状況がどうなっているのか? 突破口が欲しかった気持ちとがありました。 突破口が欲しかったというのは、終わってみて、 そうだっだんだなあって気づいたことでもあります。 ずーっと長年ケアしているパターンは、 しているつもりのレベルでもあり(だからいつまでもケアしている)、 本気で自分のあり方が変わっていたわけではなかったのだと、 ガ―――ンと、衝撃的に気づかされました。 以前にもこの衝撃がありました(いや毎回言っているかも)。 本当に自分は何にもわかっていないんだなー ということがしみじみ分かったような気がします。 考えなければいいのに、そこがもったいない。 と言われ、考えていないと思っていた自分にも、 ガ―――ンでした。え、そんなに頭使っていたのかな?? こういうところが、わかっていないのだな。 いろいろなことが自分に起こるとき(感情が動くとき)、 それをもっと単純に素直に、あれこれ考えずに、 ただひたすらワークを丁寧にやっていけばいい。 あ、そういうことでいいのか! ・・・本当に今更ながら思いました。 そして、パターンに語る者はいったい誰なのか? この国の王である本当の「私」が、 民(パターンたち)へ語るのに、本当にそこにふさわしく、 パターンとは違う「私」が耳を傾け、語っているのかを、 そこを意識してやっていこうと思います。 「私」と「パターン」は違う。 国王と民は違う。 あなたは、そう思っているんだね・・・ この言葉を使う王は、パターンに大きな距離を置きながら、 静かに眺めている・・・そんな存在なのだ。 らせんの階段を上がっていく途中の、 自分はどこを歩いているんだ・・・?という感覚は、 先に進まなければという焦りだったのかも。 「成長したい」が、「しなければ」になり、 そうじゃないと善いカウンセリングができないと。 じゃあ、善いカウンセリングって何か? そこへの探求が、パターンの求める安心になっていたのかもしれません。 安心というのは、 要するに、嫌なものから逃げたいということでもある。 そこに向き合え、自分。 「私」はそう思っていないんだから、怖がらずに向き合っていけ。 どうありたいか? 決して表面的なところではなく、 人格を変えようとするのではなく、 何のプラ...

笑いの神さま

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そこで笑えているか? もう、笑うしかないよーも含め。 「私」が何を感じてそれを選ぶのか、 自然に笑えてやっているというのは、まあまあいい感じなんじゃないかという、 進む方向の判断基準のような気がします。 自分で自分につっこみを入れてみたり、 一人でウケていたり、 小さな幸せ感じるような微笑ましい笑いもあったり、 それらが自分らしさでもあるんだなあってこの頃思います。 「笑う門には福来る」は、自分らしくいるってことでもあるのだ。 つらくてつらくて仕方なかった時でも、 後から思い出して笑えることって多いです。 っていうより、ほぼそうやって生きてきた気がしました。 その後から笑えるという経験が自分を創っているんだなあと思いました。 暗く落ち込んでるとき、 イライラしているとき、 右往左往しているとき、 何でまたこんな大変なことになっているの、あなたは・・・ と俯瞰して見れるのは、本当の「私」がここにいるから。 ここに・・・というのは、外側ではなく自分の内側に。 胸に手をあてると「私」と一緒にいることを感じられ、 いつもそこにいる「私」に問いかけ、 真剣になればなるほど、真面目になればなるほど、 そんな自分を見てまたちょっと笑えてくるのだ。 たとえ誰も笑わなくても、すべっても、 これからも一人お笑いの精神を持ち続けていきます! (何の宣言なんだ!) ポニーめんこい