傷ついたときにすること



他人の言葉に、ひどく傷ついた・・・
と思うことがあります。

その時は、本当に深く心が傷つき、ショックで落ち込みます。
自分は傷つけられるに値する人間なのか、
自分のどこがいけなかったのか、
なぜ、こんなふうに言われなければならなかったのか。
等々、傷ついたその原因を考えます。

原因を究明して、なぜこうなってしまったのか、
納得したいのかもしれませんし、納得できないとしても、
そのまま(傷ついたまま)の状態でいることがとてもつらいから、
どうにか自分のせいではないことを、早くはっきりさせたいのかもしれません。
少しでも、何か安心材料をみつけて、
このつらい気持ちから逃れたいのでしょうね。

でも、そうしている間は、
傷ついた、傷つけられた、という世界の中をぐるぐる回っているだけです。

こういうとき、
時間がとても必要だったりします。
傷ついた自分をなぐさめ、充分に話しを聞きます。
どんなに悲しかったか、悔しかったか、怖かったか・・・
ここに、もう大丈夫かなと思うくらい、あせらずに、
時間をかけてあげることが大事。

そうして、たくさん泣き、とことん落ち込んだら、
冷静な「私」をそこに登場させ、
これから自分はどうありたいのかを考えればいいのです。

時間が経つと、ある瞬間に、ふと、
ああ、こんなことを自分は理解するために、
この経験がどうしても必要だったんだなあ
と、思うときが必ずきます。
それはそれでいいのですがー

問題は、『そこまでの道のり』なのだと思います。
その長い?道のりをどう過ごしていくのかが、
自分のあり方が出るところですね。

なぜこの体験が、自分に課せられたのか?
というところに意識を向け続ける自分と、
そこからまったく離れ、
現実の生活をたんたんとやっていく自分と、
ふたつのバランスが私の場合は必要な気がします。

この体験(傷ついたと思った体験)が、
必ず、自分の成長に必要なものであると、
しっかりここから学ぶことができますように。と祈る自分。

そして、
他人を自分の中にいれずに、自分の芯を感じながら、
目の前にある日常の一つ一つのことを、
少し肩の力をぬいて、楽しんでやっていくような自分。
(傷ついたことからは、もう心も頭も離していく感覚)

そのバランスがうまくとれるかどうかは、
傷ついた自分にふたをせず、
落ち込む自分に充分に時間をかけてあげたからこそ、なのだと思います。

傷つくことが多かった自分は(今もある~)、
自分の非を探すことも、相手の非を探すのも大得意ですし、
自分があっという間に崩れ落ち、
長くそのことを引きずってしまうことも知っています。

でも、その『自分を知る』という経験が、
自分の助けになっているんだなあと、最近思うようになりました。

真っ先にやるのは、他人がどうのこうのではなく、
自分自身を救うこと。
そして、自分を救い出すまでの間、
どうやって過ごしていくのか、そこに自分のあり方を体現します。
また、その経験を活かせる自分でありたいために、
努力していこうと意識を向けていく。
すべて、自分に聞いていくと、
そうしたい自分がいると感じられるようになりました。

これは、個人によっては違いがあり、
正解はないかもしれませんが、
一番自分の感覚を信じることが、自分にとっての正解ではないでしょうか。







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