自分の代わりに
周囲で起こるいろいろな問題、仕事の悩み、人間関係の悩み、家族の悩み、体調不良など、
自分の身代わりであるかのように思うことがあります。
自分自身のことではないのに、
自分の身に起きたこととして考えてみたくなるからです。
とはいっても、やはり自分のことではないので、
とても客観的に一歩引いてそれら起きていることを観察することができます。
感情としては冷静ですし、
少し痛みも感じたりもしますが(自分のパターンが共鳴したりもする)、
それでも一連の流れや、もしかしてこういうパターンがあるのかな、
ということが見えるような気がします。
自分だったらどうするのだろうか?
ということなんですが・・・
一番大きなところは、自分の感情に真っ先に目を向けるかどうか。
そこは変わらないように(横道にそれたとしても)、隠れている自分の中のパターンが何なのか。
自分を知る、今起きていることを知る手がかりになるから、
だから自分は何よりそこに注目します。
でも、多くの方が、そこではなく(それが悪いということではないですよ)、
起きていることを理屈で分析し(なんでこうなったんだろうと、原因を外に見出そうとする)、
人が対象であればその人が考えそうなことを考え、
事態を変えることへ知恵を振り絞り、
考えて考えて解決に向かおうとしているように見えます。
でも、最近は、
自分の気持ちが悩みの根源になっていると考える人が増えているようにも思います。
なぜ悩むのか、本当は自分の心は知っているんだけど、
そこを見たくないし、よくはっきりと感じ取れない・・・
人が対象であれば、その人に何か自分がすっきりすること、自分を守る言葉、
正直な思いを伝えるということをやっている人もいます。
その伝える動機のところはいろいろだと思いますが・・
本当に悩みが解決に向かう方法はいくらでもあるのだと思います。
でも、自分ならどこに向かっていきたいのか(これですべて終わるではないにせよ)、
そういうことを他人の悩みにふれながら考える機会を、
たくさんもらっているんだなあと思うことがあります。
自分だけの気持ちがおさまるところにおさまる。
これも大事なことだと思うけれど、
自分だけではなく、そこにかかわる人たちの心もおさまる、
できるだけよい気持ちに向かっていけるかどうか、
というところも同時に考えたくなっています。
それはどう他人から思われているか、よく思われたいということではなくて、
自分という人間にかかわってくれた人たちへ、
自分が学んできたことを使って(使うという意識はほぼないけれど)、
できる限りのことをしてあげたいと思うようになっているのだと思います。
丸裸の人間として、
丸裸の魂同士として、
なにかかける言葉があったとしたら、それを迷わず伝えたい。
そこには愛しかないのではないかと感じます。
考え抜いてかける言葉というより、
それはもう自分の中からあふれてきた言葉。
そういうものを素直に表現していきたいと思う。
他人にかけたい言葉って、自分へ向けて言っていることなのかな・・・
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