友人との会話で
友人が転職したということで、
一年ぶりの再会でご飯を食べにいきました。
仕事の話をいろいろしていくうちに、
前職でのつらい体験が今も傷ついたまま心に残っていて、
自分にも似たような経験があるため、光景が目に浮かぶようでした。
その話を聞く自分の中の母性は、
友人の気持ちに寄り添い静かに受けとめているようにも感じました。
また少し客観的になって感想を言う自分もいて、
そこは父性をもって話していたということだったのかなと、後から思いました。
自分の中に母性も父性も両方あることが感じられ、
それは自分だけでなく、友人にもあった(誰にでもある)と。
もしかしたら、
どちらか一方だけの自分で話を聞いたり話したり
ということの方が多いのかなと感じます。
普段いちいちこれは母性だとかこれは父性だとか思わないので、
バランスが偏っていても気づかないのかもしれません。
パターンで話しているかどうかという視点ならばともかく(←これは分かりやすい)、
「私」が話すというところを意識的にもっていても、
その中でも母性や父性というところで、
聞いてもらえたなのか、助言をもらったなのか、ただそばにいてくれたなのか、
なにかお互いにどこが伝わるのかの感じ方はいろいろです。
自分のパターンに対する語りかけは、
以前はほぼほぼ母性だけでやっていたために
なんだか寄り添うというよりべったり感があって、
それはパターンよりでもありました。
ということは母性とも違うのかも。
また父性だけだと気づいたときは、
母性がするような受けとめや、待つということ、そこに一緒にいるという感覚など、
それらが省略されて父性がパターンの気持ちを正しく代弁したとしても、
その語りかけはただ「こなしていた」に近かったのだと思います。
ということは、父性だったのかもあやしいな。
普段の語りかけの要素といったものが、
こうして友人との会話の中でも起きているんだなあって、
ああ、だから語りかけって誰がやっているのか?そこが大事なんだなあって感じた夜でした。
| 一瞬の夕焼け 遠くに岩手山 |
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