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12月, 2025の投稿を表示しています

ほんとは着たい服

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この頃、クローゼットを見ると(クローゼットではなくただの押し入れですが)、 冬服がほぼほぼ暗い色ばっかし・・・。 ブラック、グレー、ネイビー、ブラウンにちょっとオフホワイトがあるだけ。 合わせやすい色ばっかりずらーっと並んでいるので、 毎朝悩むことなく着れるかと思いきや~、そうでもない。 ある服の中からどれにしようかと毎回悩みます。 仕事着は特に制服のように決まったものの方が楽だと思ってきたのですが、 この頃、もうちょっと明るい服を着たいなあと思うようになりました。 おばあちゃんが真っ赤なワンピースを着ていたり、 いろんな色のセーターを着ておしゃれを楽しんでいる人を見かけると、 自由でいいなあって思う。 仕事でも・・・ただ好きな服を着て行きたい! ほんとは着たいなと思っている服を何も考えないで着たい。 全身黒は最近は着なくなった

感謝

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感謝するってとても難しいことだと思いました。 何か自分が救われたとか、 誰かに何かをしてもらったとか、 天から与えられたことを実感することがあれば、 感謝しています・・・と言ったりはしますが、 言うほど簡単にできるものではないと感じます。 言葉にするとどうしてなのか、ウソっぽくなってしまう気がする。 ちゃんとそう感じていても、 どこか軽々しく言っているような感じもある。 時々、車を運転しているときに、 本当にありがたさを感じたり、幸せを感じたりしたときに、 涙が出そうになってしまうことがあるのですが、 これは自分が今生きていることへの感謝なのではないかと思いました。 でも、誰かにわざわざその気持ちを口にすることもないし、 ただ、静かに一人で感極まって、 なんて自分は幸せなんだろうって、はっとさせられるとき、 それは自分だけが知っている感情。 やはり、感謝という言葉しか浮かばない。 明日、意味付けワークやってみよう。 住宅街に突如現れた 素敵な教会でした               

初冬の風景

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明日からまた一段と冷えるらしく、 街の景色もいかにも寒そうな風景になってきました。 先日、母を連れてスーパーへ行くと、 「あら~・・・きれいだわ~」 と車窓からの景色を見て母がつぶやいていました。 もうすっかり枯れた草木に覆われた野原(というか空き地)を見て、 「枯れているけど、きれいだわよね・・・」と。 そこには優しい色合いのグラデーションが広がり、 たしかにただの枯れ草ではありましたが、自然の美しさ儚さがありました。 いつも買い物のときに通る場所だったので、 私は今まで何十年と通っていたはずなのに、 あれ?どうして気付かなかったんだろうって思いました。 その何でもない場所に母が小さな声できれいだと言ったことに、 ちょっと、じーんときてしまい・・・ その声は、子どもの頃に自分へ向けられた優しさや懐かしさを思い出します(今だってそうだよな)。 どのような中にでも美しさがあって、 それを素直に言葉にする母って素敵だなあと思った。 私もそんな豊かな心を持って年を取りたい。 初冬の景色、よく見ると自然にしか作れない色、形、おもむきがあります。 寒いけど、雪が降る前の今、 そういう楽しみ方があることを母が教えてくれました。 写真は撮れなかったんだけど、こんな感じの色でした

頭痛に語る

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今年の振り返りをしながら、 残りの時間を「どうありたいか?」で自分に問いかけながらやっていこうと思いました。 そこで、 以前日記にも書きました が、私の頭痛のその後の話になります。 ホント個人的なことなのでどうでもいい話なんですが・・・(すみません)。 治療薬というものを飲んで一週間経過しましたが、 とにかく眠ーーーい! 黙っていると目が閉じてしまい、首ががくんと落ち、 気持ちを奮い立たせて動こうとしますが、何ともだるいのです。 頭が回らないし、やる気も出ないし、 自分の体の感覚にも何とも言えない違和感あり。 専門のDRのところに行けて良かったと思うけれど、 そうか、こういうこともあるよね~って思った。 このまま言われた期間、薬を飲み続けることもできるし(やろうと思えば)、 クリニックへ行って症状を相談することもできるし、 今まで通り、痛くなったら薬を飲む、治療はしないという選択もある。 また、最近よく目につく漢方外来というところに行って相談する。 ということもあるかもしれない。 まずは、自分の今の体の異変に対して、 ●早くよくなりたい、というパターンが顔を出しているため、 そこには語りかけをして、 そんでどうありたいんだ自分は?と問いかけました。 あ~何でこうなるんだと思い始めたので、その思考はストップさせ、 とりあえず薬は一旦やめよう。 そして再度相談しよう。 今まで体調が悪いときは迷わず語りかけはしない(こういう時はお休み)と、 パターンがあってもやってこなかったのですが、 それこそがパターンであることもわかっていたと思う。 今はこの痛みがあってもやってみようと、やりたいんだな自分は・・・ って、一つ気づきました。 (ホントに無理なときもあるけど) あなたは早くよくなりたいって思っているんだね。 しばらくいい時でも、ここはやっていこう。 どうありたいか?には、そうしたいという自分がいます。

今年一年を振り返る

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今年最後のはじめて講座のお知らせです→ ★ 12月28日(日)14:10~15:30 矢巾町やはぱーく活動室A 毎月お一人さまに向けて、 心のカラクリのお話とミニカウンセリング体験をさせていただいております。 先日は、約一年前に来ていただいた方がまたお話を聞きに来てくださいました。 久しぶりの再会、とてもうれしかったです。 ありがとうございました。 一年前の自分は何をしていたのか? あ~そうでした~、体調が思わしくなく一日を終えることがなんか大変でした。 母の介護も仕事もきつく感じてしまい、 これからの暮らしを自分はどうしていきたいのだろう?って悩みました。 母のお世話もしたいし、仕事もしたい。 カウンセリングも講座もやっていきたい。 でも体も休めたいし一人の時間も創っていきたい。 考えぬいた後、会社員としての時間を減らすことにしました。 年明けにそれは実行したものの・・・ 自分は本当に欲張りな人間です。 減らすというのもそうだけど、何か新しいこともやってみたいと。 そこでしばらくの間、カウンセリングと講座はお休みし (というかカウンセリングは入らなかったというのが正直なとこ) たまたま友人からの誘いでイベントを手伝うようになりました。 自然の中を走るドライブと、大自然の恵みを感じる温泉。 気を遣わない友人と秋田のお客さんとのおしゃべりは、 今までとは違う時間が流れていきます。 仕事に戻ってもそれは続き、ほどほどな感じってこういう感じかなと、 あまりがんばらずに働けるようになっていった気がします。 年4回出張に行ったのもいかにそういう状況でもがんばらないでやれるのか、 その練習をしたように思う。 母との時間も以前よりずっとほどほどになりました。 毎日ご飯を作って一緒に食べて、それ以外は適当に。 自分が疲れたときはお休みをしたり家族に強力してもらったりして、 どんな最悪なときでさえもなんとかなるっていう経験もさせてもらった。 そうしていくうちに、またはじめて講座も復活させカウンセリングも再開し、 気づくと結構遊びも含めあれもこれもやっている自分がいました。 残りの一か月もそうですが、 これからもいろんなところで手を抜き、息抜きをし、 空いたところに新しいものを少し入れ、 来年の終わりは今年の終わりより、 また少し豊かさを感じられているようであるといいなあと思います。 ...

りんりんらんらん新聞

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たぶん小学一年生だったと思うのですが、 「りんりんらんらん新聞」というものを作っていました。 りんりんらんらんというのは上野のパンダのこと。 一年生の時に上野に行ったら動物園が休みで、 (父親が日曜より月曜が空いているからなと言って行ったら休園日だった・・・) パンダに会えずものすごくがっかりしたのを覚えています。 ノートの紙をさらに二つ折りにし、 大好きなパンダの絵も入れて、ひらがなばかりの記事だったと思うけど、 色鉛筆でカラフルな感じにして楽しさがにじみ出ていました。 4つ上の兄からもとても好評で、あの新聞取っておけばよかったね~と、 いまだに残念がられますし、自分でもあれは最高傑作だったと思う(自画自賛)。 小学4年生からは新聞クラブに入り、 ガリ版で作っていたのですが、あの工程が本当に楽しかった。 鉄の鉛筆みたいなものでガリガリと用紙に書いて(というか傷をつけて)、 破けないように気を遣いながら書くと少し角ばったような文字になってしまうのですが、 それがまたいい味出ていたんです。 インクが紙に沁み出て文字になっていくのも感動でした。 その後は、しばらく新聞作りには縁がなかったのですが、 娘が中学のときPTAの広報役員になり、再び新聞熱が復活しました。 この時は写真も撮ったし何より誰かにインタビューなんかもしたりして、 印刷屋さんと何度となく原稿のやり取りをして、まるで本職になったかのようで面白く、 最後の年には部長に立候補してまで広報作りに熱中していました。 それから数年経って家を新築したときも、 新築に住むことって人生でもう二度とないと思い、 家の様子や家族の近況を紹介する家族新聞を作りました。 仕事でパソコンをちょっと覚え始めたころだったのでワードで作成。 家のお気にいりポイントや、夫の日曜大工の様子、娘が当時はまっていた遊びなど、 本当に自己満足の何ものでもない家族だけに向けた新聞でした(何年間か続いた)。 と、まあ・・・こうしてみると新聞と私の歴史は長い。 今では仕事で新聞社に行く機会があるため、 記者の方とお話をしたりするのも内心うれしくドキドキしたりしています。 最近の新聞はデジタル版もでていますが、 やはり紙をめくって読む新聞がいい。活字っていいです! 好きというのはそれとは無縁なことをやっていても、 意識が一瞬でそこに向かうことができ、つなが...

決めつけに気付こう

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毎日なにかしらの決めつけをしているように思います。 今朝も雪が積もっていたので、 なんかもう今日は寒くてだめだなと(何がどうだめなのか?)。 決めつけているので、だいたいそんな感じになって行く気がします。 決めつけというのは、現実を見ても知ってももうすでにそう自分が決めているので、 なかなかそれ以外の選択を考えることがありません。 なんなら、そうなる前提でその先のことを考えているので、 その先のことっていうのも苦しいものだったりします。 そういうことが日常にたくさんあるなあって思いました。 しかも、すっごく小さなことに対しても・・・です。 ちょっとネガティブになったら、 これは決めつけか?と問いたい。 きっと、そう聞いた途端にいろんな選択肢が出てくるはず~。 熱燗でいただきました!

与えられるものは?

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先日、行こうかどうかしようかと迷うことがありました。 すでに人を連れて行く予定にはなっていたのですが、 行く目的、何をするためにその人を連れて行くのか、 自分の中で今一つ腑に落ちないことがあったのです。 パターンに引っかかっているなと思い、 ●責任が重いから行きたくない というパターンに語りかけをします。 なぜパターンは責任が重いと言っているのか。 その人を連れていくからには、 それなりの成果を出さなければならないとパターンは思っているからでした。 そして、その人に失礼なことがあれば、 自分との関係が危うくなってしまうのではないかと思うし、 まだよくわからない行った先の相手の人にも、 何か失礼なことにならないだろうか(それは結局自分が嫌な思いをしたくないのだ) とそんなこんなを心配するパターンもあります。 語りかけをしていくと、 もう少し、行く先の相手のことを自分が知りその関係性を深めて、 この人であれば自分があいだに入ってもいいと思えるような、 そんな心境になってから行きたいと思うようになりました。 それでも状況としては、もう行く選択しかなく・・・ それに向かって物事が進んでいきます。 これはもう、この流れに逆らわずに進んでみるということだなと理解し腹を決め、 「なるようになる」という気持ちで今度はいろいろ準備をし始めます。 もう行って自分も楽しもう!と。 そして、あと3日後にせまったとき、 連れていくはずの人が行けなくなりやむなく中止。 内心、ほっとした自分がいました。 この世のことはすべて、天から与えられていることだと聞きます。 人との出会いについても同じで、 人が人の意図のもとに会わせるのではなく(そう見えたとしても)、 天がそれは決めることなんじゃないかと思いました。 たくさん悩み、パターンも見つけ語りかけをし、 そして現実的なところでやるだけやったらあとはまかせる。 これしかできないし、これでいいのだなあって。 はじめから行くということが受容できなかったため、 それをパターンでやっていたとしたら(パターンの理想通りに何とかしようとしたら)、 何を自分に与えられたのかなあって思います。

なんか元気な人

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最近、中途採用の面接に来られる方をちらほら見かけます。 自分も面接はこれまで何度も受けてきましたが、 私の場合、落ちたときにまず思い出すのは、 笑顔がいまいちで、服装もなんか独自の基準で(ここも真剣さがでる)、 言うことや態度がちょっと生意気だったのではないかと思います。 おそらく謙虚で誠実にいこうとか、自信もっていこうとか、 いろいろ心づもりはしていたと思うけど、 素がそうじゃないので何かちぐはぐな感じだった気がします。 それで思い出したのですが、 今の会社に採用された時(40代前半)、 採用理由が、元気が良かったからね~、と言われたのです。 当時は、え、元気って・・・それだけ?と思いました。 でも今や障害のある方の就労支援をしていると、 障害の有無に関係なく、 本当にそれがまずは一番だということがよ~くわかります。 なんか素直で、明るくて、自然に元気な人。 この人となら一緒に楽しく働けるかな。 って感じる雰囲気があるかどうかはまさに感覚、直感でしかありません。 学歴も何をやってきたかとかも全然関係ない。 なんとなくいい感じ~っていうものこそ大事なんでしょうね。 働いてからもそういういい感じが人間関係を柔らかくしていくのだと思います。 と、ここまで書いて、 今の自分はどうかな?と振り返る。 ありがたいことに、素直で明るく元気じゃないときも、 利用者さんたちが自分を、 そういう人間を思い出させてくれているのではないかと思いました。 就職を目指してがんばっている人、 人との関係つくりに悩みながらも毎日通ってくる人、 体調を整えていくことを目標とする人、 自分の居場所として来れるようになった人、 などなどいろんな人がいます。 一見静かに見える毎日ですが、本当にみながんばっているんだなあと思うし、 がんばれないって言う人でもそれと対峙しながら、 やっぱりそれもがんばって生きていると言える。 そういう心はお互い影響されないわけはないので、 気づけば自分も元気なスイッチを入れて一日を始められているのです。 それがすごくありがたい。 明日から雪マークが出ていました。 どんよりした空が続いていますが、明るい挨拶で明日もいこう! 写真をAIでアニメふうに作ってもらったら…誰この人!

ただ付き合うこと

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ちょっと前に書きました、 私の推しの話 の続きになります。 あらためて現代思想をまた読み返しているのですが・・・ 社会的営みが「社交」人との付き合いから生じているという話ですが、 ここで、「長期的でゆるい付き合い」という表現が出てきて、 昨日のクラスの勉強会(仲間)というのがまさしくソレなのではないかと思いました。 学んでいる内容が内容なだけに、 どんだけ深い付き合いがあるかといえば〜、そうでもなく・・・ 仲間とはもう15年あまり続く関係ではあっても、 どこか自分は自分というスタンスがあり、 毎月1回程度顔を合わすだけのゆるい付き合い。 でも長さだけは結構な年月続いている。 ちょっと元気がないとか、こういうパターンに引っかかっているのではないかとか、 そういう少しダークな部分があったり感情の波があったりしても、 何となくその気持ちわかるよ~的な関係に、心的にわかるようになってきたという感じです。 それもはじめは全く理解できなかった浅い関係の他人が、 少しづつ、心と心でわかりかけてきている。ということは、 関わりのゆるさがなければ、根気よく続けて付き合ってこれなかった。 ってことかもしれません。 そして、「異業種のアウェーで磨かれるもの」というのを再度考えてみたら、 自分にとっては、職場なのではないかと思った。 社外に一歩出ればいろんな企業の人と付き合うし、 社内であっても、何に重きを置いているのか、 何を目指しているのかというところでは見ている世界の違いがあります。 そういう意味では働くことがすでに自分にとってアウェーの場。 ただ会社へ行くだけでも、それは自分のある意味平凡さや至らなさや、 狭い心(パターン)を見つけられるというのは本当にそうです。 自分自身の鍛錬がここでまかなえる。 だからこの頃は、会社員でいて多種多様な人たちとお付き合いがあるというのは、 とても恵まれているってことなんだなと思うのでした。 魂を磨こうと思うなら、 自分と異なる人間と長期的にゆるいお付き合いしていきたいです。 本、また買ってしまった〜