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12月, 2024の投稿を表示しています

最後の最後で・・・

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今年は本当に、あっという間の一年でした。 私事ですが、年明けに父が旅立ち、 その月に『はじめて講座』をスタートし、 後半は体力が危なかったですが~ いろいろなものに守られ助けられながら・・・ 何とか気持ちあらたに新年を迎えられそうで、ほっとしています。 今年のテーマ、自分はどうありたいのか? 常に問いかけていくことをやった一年でした。 ですが・・・最後の最後で、 ありたい自分ではなかった行動がありました。 何だか自分らしいパターンと言えばそうなんだけど、 自分のこのパターンへの理解がまだまだ不十分だったんだなあと思いました。 もう落ち着いていると思いたいパターンがいたのか、 はたまた、このパターンには顔出してほしくない!と毛嫌いするパターンがいたのか。 いずれにしても、 この国の王として(自分が自分という国のリーダーだとしたら)、 ちゃんと声を聞いてあげられなかった。 ここは、自分にとってとても大事なパターンなので、 年をまたいで語りかけていきます!(王様は年中無休) 具体的な行動が、この世の全て。 だとしたら、 考えているだけで、止まってはいなかっただろうか? 最後に行動しきれなかった部分を、来年は意識してやっていきたいな。 そういう意味でも、 年末の大掃除って、行動ありきでーとてもいい(急に思う)。 掃除というその行動の本質を、昔の人たちは知っていたのか? 身辺をきれいにして新しい年を迎える。 一年で一番あらたな気持ちになるこの時節に、 無心でやり、今自分が何を持っていて何を捨てずにいたのかもわかる。 これぞまさに「あり方への行動」だと思いました! 今年もまずまず掃除ができて、良かったです。 (いつもきれいにしている人にとっては、あたり前の話ですな) 明日はもういよいよ大晦日。 きっと夕方過ぎたらもう車はほとんど走らなくなる夜。 雪がちらほら降って、しーんと静まり返る。 この寒さと静けさが好きです。 今年一年、ブログを読んでくださりありがとうございました。 来年も格闘の日々を正直に綴っていきますので、 どうぞよろしくお願い致します! 実家の絨毯を、うん十年ぶりに新調しました!

寸分の狂いなく

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いろんなパターンを持って、 こうして生きているだけでもすでにみんな偉いんじゃないかと、 この頃本当に思う。 得られたことよりも日々つい反省をしてしまうのは、これも成長しなければというパターンだし、 もう他人からの評価や称賛、共感や承認はいらない…と思ってはいても、 ふとしたことでそれを欲しがるパターンもあります。 それら全部、自分の一部であるのだから、 大切に目を向けていつでも気づいた時はそばにいてあげたい。 パターンって、忘れた頃に突如顔を出すんですね。 おっ、出た!って感じに。 それって、忘れてはいけないからなんだと思う。 そういうパターンを持ちながら生きていくことをちゃんと思い出してもらいたいと、 パターンも思っているのかもしれません。 つい一年前を思い出すと、 他人の言動に感情がざわざわしていたものが、 今同じようなことを言われも、あれ?ざわざわしなくなったんだなあと、 変わっている自分を感じることがあります。 でもそれは、もうそこにパターンが無いのではなく、 形を変えてまた違った他人からの言動にざわざわする自分もいて、 根底にはそれらのパターンは今でもしっかりと根付いていることをただ知るのだ。 パターンが大人しくなったのではなく、 パターンにとって無視されているってものは即座に反応するようにできている。 それはもはや、宇宙のルールのように寸分の狂いなく正確なのだ。 騒ぐパターンにもう平気なふりはできないし、 平気じゃない自分でいい。 そのルールに沿って、良心に沿って、 自分はどうありたいの?と立ち止まれる自分がいて良かった。 (立ち止まった、その後の行動が肝心なところだが) 小さい頃から、両親から、周囲の大人たちから、学校から、社会から、生まれるもっと前から、 自分のパターンってどこから一体始まったものなのか。 パターンにも長い歴史ありで、 それらをクリアするまでみんな長い旅をしているのではないかと思ったりします。 また一年経ったら、 今感じているざわざわはもうキレイすっきりなくなりましたー! というものではないし、 ひたすら、ざわざわ、イライラ、ドキドキするものを感じながら、 静かにパターンの話を聞ける「私」で居続けたいなあと思う。 一年後も、今よりもっとそこへの過程を楽しめる自分でありたい。 モンブランケーキと見せかけて…プリンでした!

もう、それは、ない

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もうそこから降りていこう(やめよう)と思うとき、 その反対のことが起きたりします。 反対勢力?的なものが動き出し、自分が試されているような感じも無きにしも非ずです。 「こうしよう」と決めたときは、 意外と本当にはまだその覚悟はなく(まだ決まっていない)というか、 意識的に自分をそっちの方向へ歩いて行くように操作している感じがあるかもしれません。 そうではなくて、 もっとそっちへ行こうという自覚などないほどに、 「気づいたら、こうなっていた」と後から思う時の方が、 すでにそこから離れていたんだなあと思います。 そして、反対勢力的なものなどもなかったように(あっても大したことないほどに)、 すでに何か以前とは違う見え方感じ方が自分の中で起こっているのです。 試されるような出来事ではなく、 むしろ「私」に協力的な出来事が起きていくというか。 そういう意味では、 限界までやってみる、突き進んでみるというのも(命に別状がなければ!)悪くはないのかも。 おそらく何かしらのパターンでやっていたり、 もう、パターンではないところでやっていたとしても、 事態が変わるという分岐点までは、ある程度の量と質(時間と体験内容)が必要で、 そこがあふれる瞬間が、心が変わるタイミングでもあるのかなと感じます。 だから、迷っている間や悩んでいる間は、 まだそのあふれるタイミングにまできていないというだけのこと。 考えに考え、行動を変え、言動を変え、 悩みながらそれが落ち着いたりまた騒いだりと波がありながらも、 毎日をまあなんとか過ごせている、そのことを充分にやり尽くしていけばいい。 そのうち、 そういうところでは、もう、ない。 「もう、それは、ない」という感覚が突如現れるかのようになるのですが、 水面下ではそうなるための準備が進められ(準備電位ってあるらしい)、 なるべくしてなったかのように見えるかもしれません。 だから、自分がどこを目指して生きているのか(どうありたいのか)、 そこをいつも思いながら自分の行動を変え、 どうありたいのかで毎日の自分を見ていくのをやっていくのは自分にとって大切なこと。 どういうことを学びたいのか?(または、学びたくはないのか?) それによってどんなことが起こるのか、 天が(「私」が)決めているのでしょう。 あとは自分が明るく進んでいけばいい。 娘の誕生祝いに、RHI...

小さなことから

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今朝の盛岡は久しぶりに青空が広がり、 その分冷え込みました。 このキリッと顔が凍るような痛いような寒さは、 昔より暖かい冬になったとはいえ、小さい頃から変わりません。 今朝冷えましたよね〜が、朝の挨拶にもなる。 毎年この時期はすでに顔が(身体も)カサついて痒くなるのですが、 今年ははじめて何か対策しようかなと思い、 部屋に1本化粧水をおいて、気づいたときにバシャッバシャと浴びるようにしてます。 手頃なお値段の無添加低刺激の化粧水をドーンと目につくところに置く。 この行動に出たとこで、今年は肌が大分潤っている気がします。 ちょっとした工夫でこんなに変わるなら、 なぜに今まで試さなかったんだろうと思うほど。そんな感じで、ちょっとの工夫さえも、面倒くさいと思っていたんですねー私。 やればいいものの何もしないから、万年乾燥肌でもあたり前だったのではないか? 考え方を変えるっていうよりも、 どうありたいのか?の答えとして、 生活(動作、行動、態度)が変わって考え方も変わっていくってあるのかもしれません。 ちゃんとした(すごいざっくりの言い方だが)生活の先にそれに見合った考えになっていくというか。 毎日の生活習慣が変わるだけで、 頭の思考回路がそれに合わせるかのように変わる。 (対策をすれば乾燥しない!) こんな小さなことの積み重ねでちょっと生活が豊かに楽しくなります。

降参する

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最近思うのは、 自分のいる環境、働く場所、一緒に過ごす家族・家庭、 何で自分はここに?という疑問ではなく、 本当に貴重なたった一度の人生だからこそ、 絶妙な環境だとここを選び、 ここが自分にとって最高にこれ以上なく相応しいところなんだなあと感じます。 今生は、どうしても、 ここに向き合ってねって思うような、 向き合わざるを得ない充分な環境が、これからも与えられるんだろうなあ。 どこまでが自分の意思が反映されていて、 どこまでが神の領域なのかわからないけれど、 生まれてきたからには、この今ある与えられた環境がまずは最良であると考えて、 その場で懸命に生きていくのが正解!だと。 何というか、 その方が分かりやすいし単純明快でいい。 心境的には「降参する」に近いかもしれません。 降参って、戦いに負けるようなイメージあるかもしれませんが・・・ でもそう、それです。 その今まで戦ってきたものって何だったんだ? とふと真顔になってみれば、 とてもくだらないプライドだったりします。 まるで、裸の王様のような戦いっぷりだったんじゃないかって。 そういうところからは、もう降りてもよいんじゃないか? そういうことを思うと、 今自分のいる環境が丁度いいってこともよくわかるし、 その中でがんばっている自分も何だか滑稽に感じ、周りで役割を担っている人たちにも愛おしさを感じたりします。 毎日そこで喜怒哀楽感じている自分ってホントご苦労様~って思うし、 本当に本当に毎日、自分っていろんなことに戦っていたんだなと思った。 でも、その戦いがあったから今があるとも言えるのだから、 無駄なことは何一つやっていない。 そこがこの世の不思議でもあります。 来週はもうクリスマスですね。 今年の目標の、どうありたいか?という問いかけも、 降参してみての新たなあり方・・・ということになるのかな。 あと少しの2024年を大事にしていこう! 正太郎といったら塩中華!

どんな気持ちでいたいのか

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楽しみにしていた年内最後の岩手クラスのセミナーは、 なんと、インフルエンザで参加できずに終わってしまいました。 あ~、あとせめて2日遅れて罹っていたらなあと、 なぜこんなドンピシャのタイミングなんですかー! と残念でなりませんが、 それも今は自分にとってのいい意味付けに変えています。 寝ていると・・・ 何度か夢を見ました。 とてもはっきりとした(リアルにありえるような)夢でした。 ちょっと内容は書けませんが、その夢の中で私は、 ある出来事に対してとても優しい気持ちになっているのです。 そう、すごく温かく優しい気持ち。 こんなふうな自分でいつもいられたらいいなあと、 そう思うような温かな世界の中にいたのです。 それは、自分のためではなく誰かのために、 その出来事がうまくいくように考え、 うまくいったらみんなが喜び、自分もうれしいなと思い・・・ とても幸せな気持ちでいるところで、夢だった!と目が覚めました。 目が覚めて「あ~なんだ、夢かあ、残念だなあ」 と思いながらまた眠って、その夢の続きをまた見ることになりました。 夢の中では、夢だと気づいていないので、 私はみんなのためになることをまだ喜んでいて、 本当に良かったなあって、心から思い喜びを周囲と分かち合っているのです。 で、また目が覚めて・・・で終わった。 どうしてこんな夢を見たのだろうか? 夢の中で、確かに自分はとても優しい気持ちになっていた。 こういう温かで柔らかな気持ちは、昔もっとたくさんあったような気がした。 それがとても堪えました。 そうか、自分は人に優しくなかったんです。 誰かに何か意地悪をしているということではないですが、 自分を大切にするということが、自分のことだけを考えているになっていたし、 あろうことに勇気の使い方を間違えていたんだと思いました。 正義のための勇気?いえ、自分を正当化するためのただの嫌味なやつだったんだ。 この夢の中の自分は、それを思い出させ、気づかせ、この感覚を味わわせ、 そうでしょ、こっちの方があなたずっと幸せでしょ? あなたが望んでいるのは、こういうものでしょ? って言っているようでした。 自分だけがいいのではなく、 みんなの(全体の)ことを考えていなかった自分がいたことに、 とても苦しく胸が締め付けられそうになりました。 なんて傲慢で、天狗になっていて、うぬぼれていて、全然...

思いこみってすごい

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自分の思いこみってすごいなーって思います。 悪い意味での思いこみです。 そう思いこんでいるから、 今ある出来事もこう(悪く)なってしまったじゃん!と受け取るし、 全部その思いこみから人も出来事も小さな世界の中で起きていって、 感情の波が止まらないのです。 というより、いい意味での想像ができなくなるのですね。 想像力が乏しくなって、 なかなかそれ以外の展開が思いつかないというのが、思いこみのすごさです。 かといって、いい意味での思いこみは、 自分をいい気分にさせてくれるから、いいのか? 「私」はいつも冷静にジャッジをせずに物事を見極められる・・・ それは、パターンでいろいろやっている人間にはなかなか大変なことですが、 それでも少しだけ冷静になって、 今どっちで受け取りたいのか、考えたいのか、 そこは自分の意思で選択することができます。 言ってみれば、 自分に都合のいいように受け取ればいいのではないか。 「いいように」というのも、またある意味思いこみなんだとは思いますが、 期待はしていないけれど~自分にはそれが良いことなんだなと思う、という感じです。 最近、そういうことが多くある。 うわ~どうしよう、やだな~って思うけれど、 そこからちょっと冷静になって、 何か私、思いこんでいないか? こうなるって決めつけていないか? と自答自問し、人へ聞いたり話したり自分で考えたりしているうちに、 いかに物事を深刻にしていたかを思い知るのです。 気の進まないことも、問題が起きたなと思うようなことも、 まずは期待せずにただやる。 黙ってやる。 そうしているうちに道が開けるようなときがあります。 ジタバタせず(してもいいんだけど)、 良心に従ってやっていると、やがていいように進んでいたんだなと後から思うことがあります。 悪いように受け取るよりは、 いいように受け取るとる方がいいに決まっている。 でも、そういう両極端な感じではない、何かどっちでもいいとちょっぴり思っている中庸的な感じです。 ここは、まだ自分自身に身についているという感覚ではないので、 「もしかしたら・・・そう思いこまなくても、もういいのかもしれない・・・」 ということをある意味思いこむような、 それもありなんだよと教えてあげるような、 それを今大事にします。 思いこみがあったからこそ、 そういう大事なことにも気づける。 雪...

勘違いする理由

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少し冷静になってくると、 自分は頑張っている、自分はちゃんとやっている、そして自分は正しい。 というようなことを思っていたために、 頑張っていない人が目に飛び込んできて、 ちゃんとやらない無責任な人(←天敵)ということで、頭にきたのだと思いました。 じゃあそんなに他人を非難しているけれど、 ホントにそれだけのことを自分はしているのか? たまたま好きなことだから頑張っていた、たまたま上手くいっていた・・・ それとも、大したことはしていない、上手くいっているというほどのことか? ちょっとだけ、まあ頑張ったのかもしれないけれど、 それだけのことなのに・・・勘違いして、なった気していたのだと思いました。 パターンでいる時って本当にそれが見えません。 かすみがかったように、本当の自分が見えていません。 自分こそがちゃんとやっていると思っているので、 自分は全く非がなく、悪くなく、間違えも何もないわけです。 正当な理由はたくさん出てくるし、それが自分に変な自信を植え付けさせます。 そして、パターンがパターンを納得させていく。 以前、何かにつけて納得したがっていたのは、 納得ができると、それが正しさのように感じられたからかもしれません。 納得して、これで自分はいいのだと信じ、 それで自分は自分らしくもあるのだと思っていた。 今まさに、自分がそうしてきたことの結果なのだと思う。 やっと~かかとの穴をダーニングしました♪

自分を落ち着かせる

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久々に頭にきたことがありました。 くれぐれも言い方には気をつけなきゃって自分に言い聞かせてはいたのですが、 結局、話した後に感情のままやってしまったと、 後悔することがありました。 しばらくモヤっとして、 その後悲しく寂しく、怒りも込み上げ、 そしてもう取返しがつかない・・・って思うと苦しさを感じます。 苦しいということは、 魂的には進化のときなのかもしれませんが、 そんな余裕はなく、パターンへの語りかけも出来ずにいました。 でも1日経って、 自分が気づけないってことに、 今から気づけるかもしれないような大事なことが起きているのかもしれない・・・ ふと思いました。 後悔した時って、今更無いことにはもうできないけれど、 この先に対しても、これからどんなに頑張ったってもう無理なんだと、 思い込む魔力のようなものを感じます。 どんどん気持ちが落ちていきそう。 これを止めるために、 もうちょっと何か空気が変わるようなことをしたいと思い、 マントラを考えました。 明るく(まずは明るさを持とう、笑おう) 深刻にならず(軽く行こうよ!) 傲慢にならず(図に乗っていないかを自分を見よ) 感謝を持って。(今日の私があることに感謝しよう!) 『明るく、深刻にならず、傲慢にならず、感謝を持って』 過ぎたことを引きずらないように、言葉の力を借りるのです。 本当の「私」は過去にも未来にもなく、 今だけを見て、今何をするかだけに没頭している。 感情に飲み込まれると、笑顔が消え、明るさがなくなり、 とんでもなく不安になり全体が暗くさえません。 こういう時こそ自分を明るく引っ張っていきたい。 自分で考えた言葉でのマントラ、結構いい感じかもしれません。 だんだんこの言葉の通りに自分が落ち着いていくのを感じます。 そうやって少し準備をしていきながら、 自己観察、語りかけ、自分の内に入っていこうと思います。 じゃーん、岩手山