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笑いの神さま

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そこで笑えているか? もう、笑うしかないよーも含め。 「私」が何を感じてそれを選ぶのか、 自然に笑えてやっているというのは、まあまあいい感じなんじゃないかという、 進む方向の判断基準のような気がします。 自分で自分につっこみを入れてみたり、 一人でウケていたり、 小さな幸せ感じるような微笑ましい笑いもあったり、 それらが自分らしさでもあるんだなあってこの頃思います。 「笑う門には福来る」は、自分らしくいるってことでもあるのだ。 つらくてつらくて仕方なかった時でも、 後から思い出して笑えることって多いです。 っていうより、ほぼそうやって生きてきた気がしました。 その後から笑えるという経験が自分を創っているんだなあと思いました。 暗く落ち込んでるとき、 イライラしているとき、 右往左往しているとき、 何でまたこんな大変なことになっているの、あなたは・・・ と俯瞰して見れるのは、本当の「私」がここにいるから。 ここに・・・というのは、外側ではなく自分の内側に。 胸に手をあてると「私」と一緒にいることを感じられ、 いつもそこにいる「私」に問いかけ、 真剣になればなるほど、真面目になればなるほど、 そんな自分を見てまたちょっと笑えてくるのだ。 たとえ誰も笑わなくても、すべっても、 これからも一人お笑いの精神を持ち続けていきます! (何の宣言なんだ!) ポニーめんこい

失っても、あるもの

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昨日のつづきですがー 失う怖さということで、何が怖いのかというと、 失うことそのものが、というよりも、 それによって、もう安泰(変わらぬ安心)だと思っていたもの、 信頼されていたこと(そう、信じていたもの)、 それによっての優越感や自信となるもの。 それらを失ってしまって、何もなくなってしまう自分が怖い。 ということなんだと思いました。 こうなると、これまでの自分はそれなしでは立てない、 とても小さな存在であることもわかります。 失ってしまっては・・・と思うだけで、縮こまってしまい、 変な見栄も張ってしまうかもしれません。 無理してそう見えないようにするのも、恐怖心からの抵抗。 ただ、その反対に、 本当の「私」としては、そこを明らかに自分自身が認められたことで、 少しだけまた落ち着きを取り戻すような感じがあります。 冷静さを持てる・・・ような気がします。 (ちょっと話が飛びますがー) 冷静と霊性というのは、 「れいせい」という読み方が同じですが、 これって、互いに影響しあう関係性があるのではないかと感じます。 霊性を高めることが、どういうことなのか、 冷静さを持って自分を見ていくことが、 そこへつながる一つの道ではないかと、ふと思ったりしました。 大事な人を失う、 家を失う(今回の山火事で思った)、 自分の生きがいを失う、 仕事を失う、健康を失う。 そういうものの中に、自分が本当に大事にしてきたものは何か? 失ってもなお、今、自分にあるもの、 残っているものはあるのではないだろうか。 心の中にあるもの、 慈悲、愛、優しさ、たくましさ、人間らしさ、神聖さ・・・(まだまだある) といったものは失われることはないのかも。 そこで生きていくことも、一つは意味があって、 何を失っても充分に与えられてあるものに気づけるよう、 「失う」という経験をするのかもしれない。 失ったものがその人にとって大きければ、 そう簡単ではないかもしれないけれど、 命があれば、 きっとまた自分の心にあるものを思い出せるのだと思います。 蛇口をひねると・・・リンゴジュース!

得たものを失う怖さ

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何かを得ると、それは自分の能力や努力がもたらしたもの、 だと思っていることがあります(それもあり、だけど)。 同時に得られたことで、今度は自分が何かの誰かの役に立つよう、 それを使っていこう(それに相応しい自分になっていこう)・・・ ということを意識するようにも思います、はじめは。 そうなったことにも感謝しているし、 自分一人の力ではないことなど、全くもって分かっている。 はずなのに・・・です。 その謙虚さも感謝の気持ちも、向上心も、 得たことへの慣れというかで、だんだん小さくなっていくんだな、これが・・・。 しかも、順調に、思い通りになっていけばいくほどに、 自分が人より優れているような気がしてきて、 自分が良ければそれ以上は気付かない、傲慢な部分が出てきます。 そんな風に変わってはいないと、 どんなに自分を律して振る舞ったとしても、 心の中では、自分をちゃんと見ることができなくなっています。 自分が得たものがプライドとなって盾となり、 他人を認めることはできず、 だんだん大事なものが見えなくなってしまうのだと思いました。 そうやって、やっと自分のしたことへの違和感を感じ、 何か違っているとやっと気づきはじめ・・・ 今度は、その得たものを失う怖さも感じはじめます。 でも、この失う怖さに気づいたら、 ここで自己観察をすればいいのだと思いました。 他人ではなく自分を見ようと決心すると、 もう向かう先が変わっていくのがわかります。 真実(現実)が見えていって、 自分のしていることがわかり、 それを受け入れることから、心が開かれていくように思いました。 自分の良心に背く動機、考え、行動を認める。 賞賛や共感、評価や承認など、 自分のためだけのもので囲もうとしていたことを認める。 得たものを失うことが怖い。 そう感じたときは、なぜ怖いのか不安なのかを見た方がいい(と言い聞かせる)。 やってしまった・・・と思ってもすぐに軌道修正して、 自分の向かう先を確認していこうと思いました。 ネガティブな感情は、 こうして自分自身へ進むべき道を教えてくれるんですね。 自分の行きたい先はそこで良かったのか? 失う怖さを感じられたら、 手放せない何か(しがみつきたい何か)があるということ。 何を捨てていけばいいいのか、考えてみよう。 それがプライドだったら、 プライドではないものを使って、自...

すべては心の決めたままに

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今年は昭和100年だそうです。 100年前は私の祖父や祖母たちが生きていた時代で、 その方々が出会っていなければ今の自分は生まれていなかったわけで、 いろいろあったことでしょうが、よくぞ一緒になってくれましたと思いました。 父方の家系はちょっと複雑で、 何代か婿取りが続いたそうですが、その婿養子に入った祖父の前妻さんが亡くなって、 父は後妻さんの長男(戸籍では7番目の子)として生まれてきました。 祖母は6人も子どもがいる家に嫁いできて、その子どもたちを育てながら自分も6人産んで、 カイコを育てたり漆を売ったり金物を売ったり、いろんな商売を手伝っていたそう。 良くも悪くも祖父がお人好し過ぎて、いろいろ大変だったという話も多々あり、 言いしれぬ苦労をした人ではないかと想像します。 父も小さい頃、親戚の家に預けられたり、小さい子たちの面倒を見たりしながら学校へ行き、 昼は働き夜は高校、通信制の大学へと進み、 勉強がしたくてしたくて、本が読みたくて読みたくて、 といった話をよく聞きました。 (兄の勉強好き、私の学び好きは父の遺伝だな) 母方の祖父母は、父の生家から歩いてすぐのところで床屋を営んでいました。 小さな村のさらに山奥もそのまた奥の出身で(方言で「ざい」と言いますが)、 そこから二人はなんと、かけおちをして村(「ざい」から見れば町!)にやってきたのでした。 当時のかけおちって命懸けに匹敵するのではないかと思います。 母に聞くと、祖父母たちの実家へ小さい頃遊びに行ったという記憶はなく、親戚にも会ったことがなく、 そうか、かけおちってそういうことなんだと子どもの私もちょっと寂しく思ったのを覚えています。 祖母は体が弱かったのですがとても社交的で、 店には朝から晩まで、髪を切るわけでもなくいつも人が集っていたそうです。 言われてみれば、私も小さい頃、何で帰らないんだこのおじさん、って思いながら一緒に店のテレビを見ていた記憶があります。 そして父と母は、祖母同士が友人だったこともありお見合いし、 村唯一の旅館で結婚式をあげたそうです。 そんな祖父母たちの遺伝子と気質を受け継ぎ、今日まで生きてこれた私。 どうして今、急に回想しているのかわかりませんがー 昭和100年ということで大好きな昭和歌謡をテレビでやっていて、 大御所のサブちゃんが久しぶりに出ていて、 何かあの時代が懐か...

課題に向き合いなさい

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昨日は月一回のクラスの勉強会でした。 仲間が悩んでいることについて、 自分も同じようなパターンを持っていたりします。 でも、なぜそう思ったのかの理由を細かく聞いていくと、 やはり当然ながら、全部が全部同じところで引っかかっているとは限らず、 そこにその人の課題の特性が現れるように思いました。 パターンも自分自身が育ててきたものですから、 感情がさわぐことによって、 課題に向き合いなさいよ~って言われている気になってきます。 自分の分身にも思えてくる。 パターンは、長い年月を得て心の中で成長し続け、 経験や環境によってもその中身が変化しています。 だからケアの仕方もそれに合わせ、 同じパターンだと思っていても、語りかけの言葉も変わってくるし、 パターンの選び変えも、より今の自分だったらそれを選べるかも、 って思えるものが出てくるように思います。 そして、その感覚こそが、「私」が成長したがゆえの選択肢なんだと思いました。 私はきっと、パターンに居てもらわなければ、 そしてそれに気づかせてもらわなければ、 何をどう努力すればいいのか、分からなかったのではないかと思うのです。 とにかく知識を詰め込み、分かった気になって、 でも本質は全く変わらないことに気づかずに、表面的なものを得ては、 何かが違う・・・けれど分からない・・・ ってもんもんとした日々を今でも送っていたのではないかと思う。 そう、魂は何をもって修行したがっているのか? これも自分の解釈にすぎませんが、これを学びたいと思うものがあって、 本当に幸せだと感じました。 なんだか、 すごい勉強会やっているか、のように聞こえてしまったかもしんないけどー いや、すごいことっていうか、 楽しいからやっているのだと思います。 たまたま見たTVで、 自分の気持ちを知り、その気持ちを言葉にしていくというのが、 一番人間が苦手とすることだ・・・と言っていた方がいました。 (河合隼雄さんだったような) 今自分はどんな気持ちになっているのか? それを認め、受け入れられているか?声にしているか? この難しいところをやっていこうという仲間の意志と、 その環境があることに感謝です。 私の 依存先 のみなさん(笑)、いつもありがとうございます。 温泉入ってきました~