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どんな気持ちでいたいのか

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楽しみにしていた年内最後の岩手クラスのセミナーは、 なんと、インフルエンザで参加できずに終わってしまいました。 あ~、あとせめて2日遅れて罹っていたらなあと、 なぜこんなドンピシャのタイミングなんですかー! と残念でなりませんが、 それも今は自分にとってのいい意味付けに変えています。 寝ていると・・・ 何度か夢を見ました。 とてもはっきりとした(リアルにありえるような)夢でした。 ちょっと内容は書けませんが、その夢の中で私は、 ある出来事に対してとても優しい気持ちになっているのです。 そう、すごく温かく優しい気持ち。 こんなふうな自分でいつもいられたらいいなあと、 そう思うような温かな世界の中にいたのです。 それは、自分のためではなく誰かのために、 その出来事がうまくいくように考え、 うまくいったらみんなが喜び、自分もうれしいなと思い・・・ とても幸せな気持ちでいるところで、夢だった!と目が覚めました。 目が覚めて「あ~なんだ、夢かあ、残念だなあ」 と思いながらまた眠って、その夢の続きをまた見ることになりました。 夢の中では、夢だと気づいていないので、 私はみんなのためになることをまだ喜んでいて、 本当に良かったなあって、心から思い喜びを周囲と分かち合っているのです。 で、また目が覚めて・・・で終わった。 どうしてこんな夢を見たのだろうか? 夢の中で、確かに自分はとても優しい気持ちになっていた。 こういう温かで柔らかな気持ちは、昔もっとたくさんあったような気がした。 それがとても堪えました。 そうか、自分は人に優しくなかったんです。 誰かに何か意地悪をしているということではないですが、 自分を大切にするということが、自分のことだけを考えているになっていたし、 あろうことに勇気の使い方を間違えていたんだと思いました。 正義のための勇気?いえ、自分を正当化するためのただの嫌味なやつだったんだ。 この夢の中の自分は、それを思い出させ、気づかせ、この感覚を味わわせ、 そうでしょ、こっちの方があなたずっと幸せでしょ? あなたが望んでいるのは、こういうものでしょ? って言っているようでした。 自分だけがいいのではなく、 みんなの(全体の)ことを考えていなかった自分がいたことに、 とても苦しく胸が締め付けられそうになりました。 なんて傲慢で、天狗になっていて、うぬぼれていて、全然...

思いこみってすごい

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自分の思いこみってすごいなーって思います。 悪い意味での思いこみです。 そう思いこんでいるから、 今ある出来事もこう(悪く)なってしまったじゃん!と受け取るし、 全部その思いこみから人も出来事も小さな世界の中で起きていって、 感情の波が止まらないのです。 というより、いい意味での想像ができなくなるのですね。 想像力が乏しくなって、 なかなかそれ以外の展開が思いつかないというのが、思いこみのすごさです。 かといって、いい意味での思いこみは、 自分をいい気分にさせてくれるから、いいのか? 「私」はいつも冷静にジャッジをせずに物事を見極められる・・・ それは、パターンでいろいろやっている人間にはなかなか大変なことですが、 それでも少しだけ冷静になって、 今どっちで受け取りたいのか、考えたいのか、 そこは自分の意思で選択することができます。 言ってみれば、 自分に都合のいいように受け取ればいいのではないか。 「いいように」というのも、またある意味思いこみなんだとは思いますが、 期待はしていないけれど~自分にはそれが良いことなんだなと思う、という感じです。 最近、そういうことが多くある。 うわ~どうしよう、やだな~って思うけれど、 そこからちょっと冷静になって、 何か私、思いこんでいないか? こうなるって決めつけていないか? と自答自問し、人へ聞いたり話したり自分で考えたりしているうちに、 いかに物事を深刻にしていたかを思い知るのです。 気の進まないことも、問題が起きたなと思うようなことも、 まずは期待せずにただやる。 黙ってやる。 そうしているうちに道が開けるようなときがあります。 ジタバタせず(してもいいんだけど)、 良心に従ってやっていると、やがていいように進んでいたんだなと後から思うことがあります。 悪いように受け取るよりは、 いいように受け取るとる方がいいに決まっている。 でも、そういう両極端な感じではない、何かどっちでもいいとちょっぴり思っている中庸的な感じです。 ここは、まだ自分自身に身についているという感覚ではないので、 「もしかしたら・・・そう思いこまなくても、もういいのかもしれない・・・」 ということをある意味思いこむような、 それもありなんだよと教えてあげるような、 それを今大事にします。 思いこみがあったからこそ、 そういう大事なことにも気づける。 雪...

勘違いする理由

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少し冷静になってくると、 自分は頑張っている、自分はちゃんとやっている、そして自分は正しい。 というようなことを思っていたために、 頑張っていない人が目に飛び込んできて、 ちゃんとやらない無責任な人(←天敵)ということで、頭にきたのだと思いました。 じゃあそんなに他人を非難しているけれど、 ホントにそれだけのことを自分はしているのか? たまたま好きなことだから頑張っていた、たまたま上手くいっていた・・・ それとも、大したことはしていない、上手くいっているというほどのことか? ちょっとだけ、まあ頑張ったのかもしれないけれど、 それだけのことなのに・・・勘違いして、なった気していたのだと思いました。 パターンでいる時って本当にそれが見えません。 かすみがかったように、本当の自分が見えていません。 自分こそがちゃんとやっていると思っているので、 自分は全く非がなく、悪くなく、間違えも何もないわけです。 正当な理由はたくさん出てくるし、それが自分に変な自信を植え付けさせます。 そして、パターンがパターンを納得させていく。 以前、何かにつけて納得したがっていたのは、 納得ができると、それが正しさのように感じられたからかもしれません。 納得して、これで自分はいいのだと信じ、 それで自分は自分らしくもあるのだと思っていた。 今まさに、自分がそうしてきたことの結果なのだと思う。 やっと~かかとの穴をダーニングしました♪

自分を落ち着かせる

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久々に頭にきたことがありました。 くれぐれも言い方には気をつけなきゃって自分に言い聞かせてはいたのですが、 結局、話した後に感情のままやってしまったと、 後悔することがありました。 しばらくモヤっとして、 その後悲しく寂しく、怒りも込み上げ、 そしてもう取返しがつかない・・・って思うと苦しさを感じます。 苦しいということは、 魂的には進化のときなのかもしれませんが、 そんな余裕はなく、パターンへの語りかけも出来ずにいました。 でも1日経って、 自分が気づけないってことに、 今から気づけるかもしれないような大事なことが起きているのかもしれない・・・ ふと思いました。 後悔した時って、今更無いことにはもうできないけれど、 この先に対しても、これからどんなに頑張ったってもう無理なんだと、 思い込む魔力のようなものを感じます。 どんどん気持ちが落ちていきそう。 これを止めるために、 もうちょっと何か空気が変わるようなことをしたいと思い、 マントラを考えました。 明るく(まずは明るさを持とう、笑おう) 深刻にならず(軽く行こうよ!) 傲慢にならず(図に乗っていないかを自分を見よ) 感謝を持って。(今日の私があることに感謝しよう!) 『明るく、深刻にならず、傲慢にならず、感謝を持って』 過ぎたことを引きずらないように、言葉の力を借りるのです。 本当の「私」は過去にも未来にもなく、 今だけを見て、今何をするかだけに没頭している。 感情に飲み込まれると、笑顔が消え、明るさがなくなり、 とんでもなく不安になり全体が暗くさえません。 こういう時こそ自分を明るく引っ張っていきたい。 自分で考えた言葉でのマントラ、結構いい感じかもしれません。 だんだんこの言葉の通りに自分が落ち着いていくのを感じます。 そうやって少し準備をしていきながら、 自己観察、語りかけ、自分の内に入っていこうと思います。 じゃーん、岩手山

「責める」の意味付け

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「責める」について、 中立ワーク(意味付けを考える)をしてみたいと思います。 自分にとってのマイナスの意味付けとしては、 (そう、あくまで世間一般にではなく、自分にとってはどうかです) ⊖ 攻撃している、意地悪くする、その人が悪いと思っているからする、 裁き、問い詰める、威圧感を与える、相手への批判や非難、自分を守りたいからする プラスの意味付けとしては、 ⊕ 明らかになること、責任が明確になる(無責任にならない)、 原因(理由)を知ろうとする行動、相手の非を伝える勇気を使う そして中立には、 ただ一つの体験、絶対ではないもの。があります。 「〇〇さんを責めることになるから、言わなかった」 会話の中に出てきた言葉に、なんだか引っかかりました。 責めるのは良くないから(してはいけないことだから)、しなかったということなんでしょうが~ 責めることって本当に「悪」だけなんでしょうか? 時には責めることで、 相手に何かが伝わるということもあります。 責められてはじめて、その人は何か気づくかもしれないし、 責めることで、一石を投じるような、 悪しき習慣を変えるということもあるかもしれません。 また、責められた人は可哀そう・・・というのもどうでしょう。 誰も責めずに物事が良い方向へ向かうならば、 それに越したことはないけどー 責められたと思われたとしても、言わなければわからないこともある。 大事なことが伝わることで、相手も言ってもらってよかったと、 大分経ってから思うこともあるかもしれない。 以前、「言わない」「黙る」っていうことは、 誰の批判もしていないってことだからいいんじゃないの? って思っていた時がありました。 言わないほうが人を傷つけずに済むと・・・ でも、何も言わない、反応しないということで、 相手が悲しくなったり、傷ついたりすることもあるのです。 無反応、無視、無関心はとても寂しいもの。 だったら、責めることで自分の悲しさを伝えたっていいのではないか・・・ 責めないように、言わないように、聞かないように、 問題としないように、指摘しないように。 自分は何も感じていませんよー誰も責めませんよーって。 あたり障りなくやり過ごすことが悪いことではないけれど、 何だか生きている実感がそれで湧くのだろうか? ぶつかって何か変化があってもいいのではないか。 自分がもしも責めら...