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今年の草取り

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先日までの暑さはどこへやら~急に涼しさを感じる一日でした。 こんな日こそ、草取りです。 花も何も植えていない、ただ草ぼうぼうのジャングルのような庭。 春先はそれでも、今年は何を植えようかな~ と気持ちは張りきっていました。 でも実際は、実家と自宅の往復でそんな余裕はどこにもなかった! そしてもう、植えるタイミングを失いました・・・ 植木屋さんも言ってましたが、今年は緑の伸び方が早いそうです。 我が家も例外にもれず、すごい勢いで雑草が生えてきます。 草取りをしていて思いました。 この雑草を取ってすっきりしても、また数週間してぼうぼうになって、 またその雑草を取って何もなくなって、 また数週間後には、 同じ場所で同じような草を引っこ抜いている私がいるんだろうな、と。 これって、一体何をしているのだろうか?と。 そんなことを思いながら、 また雑草を育てるんだな、私は・・・ でも、ふと、草取りがある生活がなんだかんだで嫌いではないかもしんない。 草取りすると家の周りや道路のゴミも拾ってみたくなる。 しゃがむという屈伸運動にもなっているかもしんないし、 めずらしく外に出ている自分に声をかけてくれる近所の方もいるし、 何より、土いじりはやってて気持ちがいい。 そして、時間を忘れて無になれます。 明日も最高気温は低そうなので、続きをしようと思います。 今からでも野菜植えてみようかなあ~

内臓を休ませよう

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今日は帰りに鍼灸院に寄りました。 施術時間は約1時間ほどなんですがー、 ハリを打たれて始まったと思ったらもう終わっている(途中の記憶が飛ぶ)。 寝て起きて5分?と思うくらい眠ってしまいます。 そんな深いリラックス状態にいる自分が、毎回の脈診では、 緊張が取れていないですねと言われます。 今ドキドキしているとか、 元々緊張体質とか・・・ そういうことではなく、これまで生きてきた長年の疲労の蓄積具合をいうのだそうです。 日本人は特に人間関係の緊張度が高く、それが疲労となって溜まっているらしい。 確かにそうかもしれません。 気を遣って話したり聞いたり、 相手を思いやることが人付き合いのマナーだと、 当前のように刷り込んできています(←これぞパターン)。 そういう自分を変えようとすれば、それもまたそこへの緊張で疲労するのでしょうね。 東洋医学的には、 内臓が丈夫になってくると気持ちも肉体も疲れにくくなるそうです。 内臓が弱ければ体を守れず、気もあがってこれない。 だから、身体を鍛えるということは、 筋肉や骨という外側のことではなくて、まずは内側から。 内臓をいかに休ませ、本来の働きができるよう丈夫にしていくのがカギとなるそう。 なんでも外側をどうにかしようとしてしまうけれど、そうじゃないんですね(人格形成の話と同じだった!)。 そういう鍛え方ならば今からだって遅くない。 旅と暇な時間には、文庫本

ワークの理解

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以前のブログ にもちょっと書きましたが、 つい最近、職場で席替えがあったのです。 席替えするすると言いながら、結局まだだったのですが、 ちょうど出張から戻って、 気持ちあらたなタイミングでしようと思い立ちました。 そこでまた、 「席替え」の意味付けワークをやってみます。 (前回から、約2か月しか経っていないけど) マイナスの意味付けは、 親しい人たちと離れてさみしい、おしゃべりができなくなる、もう自分は窓際族のようだ、不安、緊張、仕事が面白くなくなるかも 中立は、 「席替え」というただ一つの体験だけです。 そしてプラスの意味付けは、 集中できる、じっくり物事を考えられる、落ち着く、コピー機まで歩く(歩数が増えて健康的)、人との新しい関係性、新しい視点が増える、新鮮 こうして見ると、 断然、席替えして良かったと思いました。 モノを取りに事務所へ行ったり、電話をするときも違うところへ移動したりするため、 以前よりも席を立って歩く機会が増え、ちょっと運動した気にさえなります。 まさか、プラスの中に、 「運動」が入ってくるとは思いもしませんでした。 本来、このプラスの意味付けというものには、 確実に自分がマイナス体験から獲得したものを考えます。 たとえ数日であっても、 なんだかここの席だと、気分転換も図れるし、身体にもいいし、これまでとは違う会話もなんだか楽しいかも。 って感じたところは、自分が獲得したもの・・・こういう捉え方なんだな。 ワークに対しての理解も、 少し深まったのかなと思いました。 ストーブ列車 (夏はどうしていたんだろう)

許容範囲が広がる

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もう何年と話しをしていなかった方々と、 久しぶりに電話でお話をしました。 どちらの方も、頭の回転が速いというか話題豊富でしゃべり上手なので、 かつての自分は、そのペースの速さと言葉の多さに、 圧倒されることが多かったと思います。 そこに合わせようと集中し、また反応する自分がいたため、 ちょっと疲れてしまう・・・ということを思い出します。 でも話して、しばらくして、 自分が以前とは少し変わっていることに気づきました。 それは、自分の話す割合が相手のそれよりも、ずっと少なくても、 会話が無理なく成り立つということ。 自分が聞き役となって、そのしゃべり続ける相手の話を、 聞き入ったり吸収したりしているような気がしました。 そして、それが嫌じゃないし、楽しいし、楽だなと感じます。 相手を立てている、合わせているというのではなく、 人の話がすーっと入ってくる。 ということが自分は以前よりは、できるようになったんだなあって思いました。 (なんだか、やっと落ちついて話が聴けるようになった小学生のような感じもあるけどー) これがきっと、意味付けの世界が広がったということ? 相手が以前と同じ状況、またはそれ以上であっても、 自分の受け取り方が変わった今は、感じ方が違うのです。 世界が広がるというのは、 自分の許容範囲が広がるということでもあるみたいです。

やる気はある

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今日は帰りに、ラーメン屋さんの餃子を買って母に届けました。 焼き立てあつあつの餃子に、母も大喜びでした。 そして「もう、なんにもしたくないのよね~(食事の支度のことを言っている)」と。 このくだりは、毎回自分がご飯支度をしようとすると母が口にする言葉です。 それだけ、ご飯を作らなくなったことが、 主婦としてダメなことだと思っているのか、 それとも、他にもたくさん思い通りにならないことを知ってほしいのか、 とにかく言わずにはいられないのだろうな~って思います。 私も「今までずっとやってきたんだから、もう楽していいんだよ」 と、自分が支度をすることは全然平気だというような話で終わります。 でも、今日は特に、 最近調子が出ないというようなことも言い、 「やる気だけはあるんだけどね」とか 「今日はこれをやろうって思っているんだけど、やりたくなくなるのよ」 と言っていました。 やりたい気持ちはあってもできない。 これ、年老いた母だけでなく、私もだからよ~~~くわかります! 本当に、今日はあれをやろうって思うことがあるんだけど、 何ならわくわくしながら思うんだけど、 身体が動かない、やれない・・・ということがあるんですよね。 若い人が言う、やる気ある無しとは違う話なんだと思う。 自分だって、あと10年したら、 もっとそういう現象が起こってくるんだろうな。 でも逆を言えば、やりたいこと、好きなこと、こうしたいという願望は、 いくつになってもたとえ身体が動かなくなったとしてもある、ということ。 それが人の進化なのかもしれないし、 どこまでも成長したがる、より良く生きたいと思うのが人なのかもしれないです。 だからこそ、母が今やれている事は、 本当によくやっていると褒めたたえたいし、 自宅での生活が続けられるようにできる限りしていきたいと思いました。 朝起きて着替えをする、新聞を取りにいく、デイサービスに行く、冷蔵庫から飲み物をとってきて飲む、作り置きのおかずなら食べる、テレビを見る、寝る前に水を枕元に置く・・・ 認知症になっても、 そういう日常のルーティンができる母を、私は尊敬しているんだと思う。 モノレールってわくわくする